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仏教で説かれる人間の起源

人間の起源については、世界中で様々な神話的な物語として伝えられています。それらは、それぞれの文化や宗教の価値観、世界観を反映しており、人間の存在意義に対する深い思索を促します。
本記事では、仏教で説かれる人間の起源をご紹介し、その人間観に迫ってみたいと思います。


人間の起源につきましては、インドの仏教学者世親せしん(ヴァスバンドゥ|Vasubandhu)によって4〜5世紀に書かれた阿毘達磨倶舍論の中に記述が見られます。

この世の初めの頃の人は皆、色界しきかいの人のようでした。契経(長阿含二十二、世本縁経)には次のように説かれています。

「この世の初めの頃の人々は、今の人間のような肉体は持たなかったため、業報処による個人差はなく、心も姿形も美しく整っておりました。手足もからだも均整がとれており、五体満足で感覚器官にも欠陥はなく、体格も肌の色も端整で厳かでした。からだは光り輝き、自在に空を飛び回り、喜びと楽しさが命そのものであり、寿命もなく、悠久の時間を生きていました。」と。

注釈1)「色界」とは仏教の法界の一つです。法界の構造については、次の記事をご覧ください。

この記述によれば、大昔は今のように肉体を持った人間はおらず、人は色界を自由に飛び回っていました。皆、均整のとれた姿形をしており、今の人間のように、業報処により生じる顔やスタイルの良し悪しはありません。喜びと楽しさが魂のすべてで命そのものでしたから、肉体のように寿命はなく、永遠に生きつづけていたのでした。

しかし、阿毘達磨倶舍論の続く部分を読んでいきますと、ある時を境に、状況は一変するのでした。

それは、空を飛び回っていたある一人が、地上の岩から甘い香りのする蜜が染み出しているのを見つけたことから始まります。蜜の魅惑的な香りに誘われ、好奇心を抱いたその一人は、衝動に駆られてついにその蜜を一口舐めてしまいます。一人が舐めるとまた一人と、周りにいた他の人々もまねをして、次々と蜜を舐めてゆきます。するとどうでしょう、からだからみるみる光は失せ、すっかり飛べなくなってしまいました。喜びと楽しさで満ちていた永遠の魂は、肉体にすっぽり閉じ込められ、食べなければ生きてゆけないというシステムの下、生きることとなってしまったのです。

お腹の空いた人間たちは、そのまま蜜を舐めつづけ、やがて蜜はなくなってしまいました。すると、困った人たちは次に、キノコのようなものを見つけ、それを食べ始めます。そして、キノコがなくなると野ぶどう、野ぶどうがなくなると野生の米へと手を伸ばしていったのです。

その頃になりますと、最初はなかった味覚が生まれており、「おいしい」「まずい」という味を感じるようになっていました。その時の野生米は、今のお米のようにおいしいものではありませんでしたので、我慢して飲み込む者もいましたが、中にはまずさに堪え切れず、吐き出してしまう者もいました。すると、米を飲み込んだ者は男に、吐き出した者は女になり、性差が生じたのです。この男女の姿形の違いが生じたことから淫欲が生まれ、その欲無しには子孫を残すことができないこの世のシステムができ上がったのでした。

時が経つと、人間は先々のために食糧である米を蓄えるようになり、その時から「自分の物」という所有欲を持つようになりました。

しかし、そのように皆が蓄えを持つようになりますと、やがて野生の米はなくなってしまいますから、それを見越した一部の人間は、田んぼで米を作り始めました。結果、貧富の差が生じて、貧しい者の中から、盗みを働く人間が出てきたのでした。

すると、裕福な者たちは集まって、自分たちが所有する田を守る防護策を立て始めます。それは、適当な人を王として選出して土地を守ってもらい、その報酬として、自分の田んぼの収穫の六分の一を王に納めるというものでした。ここに国の原型が見られるわけですが、当時から王は、現代とそう変わらぬ手法でその地域を治めておりました。すなわち、盗みなどの悪事を働いた者には罰を与えることで治安を保とうとしたのです。しかし、現代同様、悪事は深まるのが常で、やがては死刑に処されるほどの者も出てきました。そうなりますと、罪人の中には刑罰を恐れて、嘘をついて罰を逃れようとする者も現れてきました。

かくして人間は時の流れの中で罪を重ねつづけ、多くの問題を抱える罪深い今の世に至っているわけですが、その根本は何かといえば、舐めてはならない蜜を興味本位に舐めたことです。いわばその好奇心が「原罪」で、その原罪を犯して色界から堕ちたことに起源を発するのが人間という生命体なのです。そして、人間はその罪により、生老病死という苦しみを何度も経験する輪廻転生を繰り返すこととなったのです。

ここでは、「舐めてはいけない蜜を舐めてしまったこと」が人間という存在が生まれたきっかけと説かれているわけですが、表されているのは、欲望で衝動的に行動する魂の不完全さです。この不完全さ故、人間は次々と欲を起こし、欲が原因で他者と争うようにもなりました。そのような経緯で、人間は苦しみの多い人間世界のシステムの中、生きるようになったのです。


この世は苦海
ー苦しみの世界から逃れるために修行するのが人間に生まれる意義

この人間の起源に現れているのは、「この世は人間の欲望によって生まれた苦しみの世界である」という世界観です。仏教では、人間は煩悩によって汚れた存在と捉えているのです。

仏教は、この苦しみの世界から人間が解脱できる方法を教えるものです。具体的には、煩悩によって汚れた心を浄化することがその方法であるとしています。

仏教が心がどうあるかに重きをおき、三昧(禅)を中心とした修行を説いているのは、根底にある人間観・世界観ゆえのことなのです。


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