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☆恋愛小説☆連載小説☆ファンタジー☆【リフレイン ──あの坂からもう一度──】                                            


20歳と21歳の幼く不器用な恋。
掛け違ったボタンは永い時を経て再び巡り逢う。

それぞれ未消化の思いを抱いて、この古びた恋は結実するのか。
それとも真の決別を迎えるのか。

スマホも携帯もなかった時代の恋は、いつも別れと隣り合わせ。
取り返しのつかないすれ違い。吐き出せない思い。掴みきれない言葉。
ハタチと21歳のそんな危うい恋を描いてみようと思います。


【序章】

彼が身支度をしているのを半ば夢の中で感じていた。
目をこすりながら窓を開けて下を覗く。
ちょうど彼が玄関を出てきたところだ。
振り向いて顔を上げた彼に手を振る。
彼は笑って手を挙げ、小走りに駆けていった。
そうそう、急がないと遅刻するよ。

私もバイト行く前に銭湯行こうかな。
昨夜の彼を思い出し、自分で自分の身体を抱く。
なんか…すごかったな…。
ひとりで顔を赤らめる。

同棲3日目。夜となく昼となく求め合う若いふたり。
贅沢はできないけど、お互いの体温を感じる暮らしが嬉しい。


【第一章】ハタチの恋
── act.1 ──

「よろしくお願いします」
そう明るく挨拶したのは篠田恵里子。都内私大の2年生。ハタチを過ぎたばかりだ。

ここは新宿小田急百貨店の催し物会場。
引換券を持ってきた顧客に粗品を配るのが今回のアルバイトだった。
売り場主任に挨拶した後、細長いテーブルに粗品を並べている男の子に気づく。

一緒に働くアルバイト仲間のようだ。近づいて軽く頭を下げる。
「よろしくお願いします」
男の子は、あ…という顔をして会釈し、またすぐに前を向いている。

無口な人だな…。それが、彼「石坂俊美」への第一印象だった。

仕事はけっこう忙しく、ひとことも言葉を交わすことなく初日が終わる。

「どうだった? バイト」
「疲れた~。もう足パンパンよ! 立ちっぱなしなんだもん」
つきあってそろそろ2年になる彼氏、住田の部屋で足を投げ出す恵里子。
デパートが閉店してからだと小田急線郊外の自分のアパートに帰るのは面倒だった。
荻窪の彼のアパートはいろんな意味で都合がいい。大学へも1本で行けた。

恵里子にとっては初めての"男"。たぶん住田にとってもそうだったろう。
やはりバイトで出会った彼は、慣れない仕事に苦労していた恵里子を陰に日向にカバーしてくれた。
それは単なる親切を超えていて、その意味を理解した恵里子はいつしか彼の求めに応じていた。今では親も周りも認める仲になっている。泊まっていっても何も問題なかった。

学部は違うが同じ大学の3年生。特にこれといった特徴はない。ただ優しかった。
お酒はほとんど飲まないがヘビースモーカーだった。煙草の匂いを消すためか、いつも仁丹を持っていてキスすると仁丹の苦い匂いがした。

そんな彼に、恵里子はもうドキドキもキュンキュンも感じなくなっていた。いい人だとわかっていても、なんだか近場で手を打ってしまったようなモヤモヤした気持ちを抱えていた頃だった。

バイト3日目。無口な石坂とようやくポツポツと会話が始まった。といっても、わかったのは石坂俊美という名前とM大学の3年生ということくらい。
隣り同士で立ったまま顔も見ない会話だった。

4日目。新しいバイトくんが配属されてきた。いきなりW大学2年生と名乗った彼は、石坂とは正反対の饒舌なタイプ。
彼は必然的に恵里子の右隣りに立ち、その日から恵里子を真ん中に3人が並ぶというスタイルができあがった。並んでみると新米くんはやや小柄で、恵里子は思わず左に立っている石坂を見た。
(石坂さんて背が高かったんだ…)

翌日、閉店時間を迎えてテーブルを片づけている時、新米バイトくんが3人でお茶を飲んで帰ろうと提案。恵里子はどうしようかという目で石坂を見たが、意外にも彼の答えは「いいよ」だった。

喫茶店での他愛ない会話。恵里子と石坂はほとんど聞き役だったが、初めて正面から向かい合った石坂のはにかんだような笑顔に、恵里子は不思議な衝動を覚える。

そして次の日の帰り道。後ろから追ってきた新米くんが、お茶を飲んでいこうと恵里子を誘った。恵里子は思わず石坂を目で探すが、雑踏に紛れて彼の姿は見えない。

喫茶店で向かい合った新米くんは、いきなり何かを恵里子に差し出した。
反射的に受け取ったのは彼の学生証。
「ぼく、ホントは東大なんだ。でも東大生って言うとちょっとアレだから、普段はW大って言ってるんだよ」

たしかに学生証は東京大学のものだった。
(それって何気にW大に失礼じゃない…?)
と思いながら恵里子は「別に嘘つくことないのに…」と返す。
「石坂さんってさ~、何考えてるかわからないよね。何にもしゃべんないし」と言う彼に恵里子は(あんたがおしゃべりなだけじゃない?)と言いそうになりながら「そうね」と答えた。
たしかに何を考えてるのかわからない。何を考えてるか知りたいと恵里子は思った。

特に楽しくもない時間とお茶を飲み干しての帰路、同じ電車に乗り込んできた彼は「これから駒場で夜明かししない?」とわけのわからないことを言い出した。「楽しいよ~、ねぇ駒場に行こう!」
行くわけがない。恵里子は「じゃあまた明日」とだけ言って電車を降りた。次に来る電車に乗り換えよう。

バイト1週間目。
新米くんは相変わらずおしゃべりで石坂は相変わらず無口だった。でも律儀に相づちを打っている。
新米くんが休憩に入った時、恵里子は前を向いたままボソッと石坂につぶやいた。
「明日からポジション代わってもらえない?」
「え…? なんで?」と聞き返す石坂に、恵里子は「うん、ちょっと…」と言葉を濁す。
一瞬の沈黙の後、同じく前を向いたまま「いいよ」と答えてくれた石坂に恵里子はホッとした表情を浮かべる。
その日の閉店間際、背中を向けてダンボールを片づけながら石坂は
「明日1~2分遅刻しておいで」とつぶやいた。
「うん」と恵里子は石坂の背中にうなずく。

「すみません、遅くなりました!」
翌日、打合せ通りに遅刻してきた恵里子は主任に頭を下げ、テーブルの真ん中に立っている石坂を見届けると、そそくさとその左に滑り込んだ。
新米くんの顔は見えないが、憮然としている様子がうかがえる。

新米くんが休憩に入るのを待って、恵里子は石坂に「ありがとう」と声をかけた。石坂は「いや…」とあくまでも無口だ。
「今日、帰りにちょっとお茶飲んでかない?」
思い切って誘う恵里子に石坂はチラリと視線を向け、また前に向き直って
「ああ…いいよ」と気のない返事を返す。が、その横顔は心なしか照れているようにも見えた。

「東大くんだったのか。
でも駒場で夜明かしって何だよ、それ」
珈琲を口に運びながら石坂はおかしそうに笑っている。
初めて見せたそんな笑顔に恵里子は不覚にもドキリとしてしまう。
一瞬の動揺を見透かされないよう、恵里子はあわてて明るく言葉を返した。「でしょ~? 意味わかんない」
(でも、その東大くんのおかげでこうやってふたりでお茶飲んでる…)
恵里子は石坂の顔を見つめた。石坂ははにかんだように目を逸らす。
(私はこの人を好きになりかけてる…。いや、もうなってるのかも…)

「じゃあまた明日!」
そう手を振って、そのまま恵里子は荻窪の住田のアパートに向かった。
ひとりでいたくない…そんな気分を抱えて。
四畳半の狭い部屋。布団は一組しかない。
同じ布団に潜り込めば、若いふたりがどうなるかはわかりきっていた。
その夜、恵里子は珍しく自分から住田にしがみついた。
優しい愛撫。いつもの手順。馴染んだ身体。
ふわふわと寄る辺ない気持ちを繋ぎ止めてほしかったのかもしれない。
冷えた身体を重ねながら、恵里子はどこか白けた気分で遠くを見ていた。

バイト9日目。
隣りに立っている石坂との仲が少し縮まった気がして、恵里子の心はやっぱりふわふわとどこか遠くを漂っている。
(東大くん早く休憩行かないかな…)

「ありがとうございます」
愛想よく客に粗品を手渡しながら、恵里子は全身で隣りを意識していた。
そして石坂の休憩時間が憂鬱だった。東大くんとふたり…。
が、石坂は休憩時間を20分も早く戻ってきた。
「あれ? まだ早くない?」と恵里子。
「うん、いいんだ」
そう言って石坂は目立たないように後ろの椅子に腰をかけ、文庫本を取り出して読み始めている。
(もしかして私のため…?)
(まさか…ね)

その日の帰り、従業員通用口を出てしばらく歩いたところで東大くんが後ろから声をかけてきた。
「ねえ、お茶飲んでかない?」
「あ、ごめん。ちょっと寄るとこあるの。先に帰って」
東大くんは「ふぅん…」と不満そうな顔をして駅構内に吸い込まれていく。
その姿を見送っていると今度は後ろから石坂が声をかけてきた。どうやらふたりの様子を見ていたらしい。
「また誘われたの?」
「うん。寄るとこあるからって断ったとこ」
「寄るとこあるの?」
「ない」
石坂は吹き出しそうな素振りで横を向き、
「じゃあお茶飲んでく?」と本気とも冗談ともつかぬ口調。
「うん。飲んでく」
初めて誘ってくれた…と恵里子は内心うれしくて、それを気取られないよう努めてクールに振る舞っているつもりだ。

子供の頃は俊美という名前が女の子みたいで恥ずかしかったこと、お兄さんがチンチン電車の世田谷に住んでること、他愛ない話に笑いながら、あっという間に時間が過ぎていく。

バイト10日目。
仲良く談笑している石坂と恵里子の様子に険しい目を向けている東大くん。
やがて後ろのダンボールから追加の粗品を取り出しながら、聞こえよがしに
「東大よりM大の方がいいのかよっ!」と荒々しい言葉を投げつける。
恵里子と石坂は驚いて目を見合わせた。
すぐに目を逸らし、無言で固まるふたり。

「東大よりM大の方がいいのかよっ!」
その言葉を反芻し、(私に言ったんだよね…)と顔が赤らむのを覚える。
(東大くんは私の気持ちに気づいてたの?)
石坂の表情は伺えない。赤くなった自分を見られたくなかった。


翌日。売り場主任が頭をかきながらやってきた。
「今朝いきなりやめるって電話が来たんだよ。ほら、あの新しい子、あれ? なんて名前だっけ…」
「まいるよなぁ突然…。で、ちょっと…申し訳ないんだけど新しいバイトの補充は無理なんだ。何とかふたりでがんばってもらえないかな…。あと10日ほどだし…」

(東大くんグッジョブ!)
内心、恵里子はガッツポーズをしたい気分だ。
石坂は律儀に「わかりました」と返事をしている。それに合わせて恵里子もうなずいてみせた。
(これから10日間、石坂さんとふたりきり…)

現金なもので、石坂とふたりなら足の怠さも気にならない。
うきうきした時間が終わり、通用口を出たふたりはどちらが誘うでもなく当たり前のように喫茶店に向かった。

「さすがにキツかったね。ふたりでさばくのは。
まさかやめちゃうとはな…」と石坂。
「列できちゃったもんね。でも、東大くんには悪いけど変に気遣わなくていいから私は今の方がいい」
石坂はまた、あのはにかんだような笑顔でうなずいている。
その日から夜9時過ぎの喫茶店デートは定例となった。言葉のない約束。
石坂は冗談を言ったり軽口を叩くようなタイプではない。
けれどふたりの話は尽きなかった。
高校時代のこと、今までのバイトのこと。

「僕が東京に出て来て一人暮らしを始めた時、ちょうど京王プラザの工事が始まったんだ。入学式と同じ頃だったよ。
大学の行き帰り、バイトの行き帰り、毎日少しずつ高くなってくのをずっと見てた。変な言い方だけど、なんか同級生みたいな気分でさ」
そう言って石坂は照れくさそうに笑った。
「京王プラザはもうできちゃったけどね。なんか僕だけ置いてかれたみたいで」
ぽつりぽつりとそんな話をする石坂が好きだった。
彼のアパートは西新宿だと聞いた。
京王プラザはすぐ目の前に見えるのだろう。
置いてかれたようだという彼の気持ちが何となくわかる気がした。

バイト2週間目。
いつものように喫茶店で別れ、重い足を引きずってアパートに帰った恵里子は窓に灯りがついているのに気づく。
(住田さん…)
足よりもなお重い気分で部屋に入った恵里子に、住田は「おかえり」と声をかける。
「どうしたの?」と尋ねる恵里子。
「おまえ全然来ないしさ~、風邪でも引いたのかと思って…」
「立ちっぱなしで疲れてるだけよ。心配いらないって」
「そうか…ならいいんだけど。
おまえ、なんか最近うわの空だしさ。ちょっと気になって」
恵里子はドキリとする。
「そんなことないよ。気のせいだってば」

「明日1限からなんだ。もう寝なきゃ」
そう言って布団を引っ張り出し、潜り込む恵里子。
「そうだな」と言いながら住田も入ってくる。
狭い部屋。追い立てる場所もない。第一、今までは当たり前のようにふたり抱き合って寝ていたのだ。
でも今は触れられたくない。
住田に背を向けて丸くなった恵里子の肩に住田がそっと手をかける。
「あ、ゴメン。いま生理…」思わず口をついて出た嘘。
住田は怪訝そうに「え?  いつもより早くないか?」
「最近ちょっと狂い気味なんだ。疲れてるからかな…」
「そうか…」
と、住田はそれ以上の無理強いも問い詰めもしない。そういう男だった。

でも恵里子の気分は重い。
(私の生理周期まで知ってるんだ? )
(そうよね…もう2年だもの…何でも知ってるよね…)
今までは気にならなかった仁丹の匂いを今夜はなぜか不快に感じる。

毎日の珈琲デートは続いていた。
終電の時間を気にしながら飲む珈琲は冷めきっても、石坂と過ごす1時間、恵里子の胸は温かかった。
でも、ふたりの仲は最初にこの店に入った日から1ミリも進んでいない。
石坂は何の約束もしない。
時間が来たら店を出て、じゃあ…と軽く手を振るだけだった。
(このバイトが終わったら、もうこんな時間もなくなっちゃうのかな…)

バイト20日目。
客の姿が途切れた時、恵里子は独り言のようにつぶやいた。
「明日で終わりね…」
石坂は「うん…」と言ったまま言葉を継がない。
石坂が休憩に入った後、恵里子は思いを巡らす。
恵里子は石坂の部屋を知らない。
石坂も恵里子の住まいを知らない。
お互い貧しいバイト学生だ。もちろん部屋に電話などない。
このバイトが終われば連絡の取りようがないのだ。二度と会えない。

暗く落ち込んでいたところに石坂が戻ってきた。
隣りに立った石坂が口を開く。
「ここの6階、自転車売り場でバイトすることになった…」
恵里子は思わず「え?」と石坂の方を向く。
「前にも一度バイトしてたことあって、今ちょっと覗いてみたんだ」
「そしたら主任がまた来いって言ってくれて…」
「そうなんだ?」と返しながら、恵里子は嘘のように気分が晴れるのを感じた。

「いつから?」
「来週」
「すぐだね」
石坂は「うん」とうなずく。
「ほんとは1週間くらい休もうと思ってたんだけど…」
(私のため…?)
(…って何を図々しいこと考えてんだか…)
(その証拠に私のことは聞いてくれない…)
石坂が「キミは…」と言いかけた時、ガヤガヤと数人の客が連れだって現れ、言葉は途切れた。

閉店のチャイムで帰り支度を始めた恵里子に石坂が告げる。
「ごめん、あっちの主任に呼ばれてるんだ」
「あ、そうだよね。じゃ、また明日」
明るい声とは裏腹に恵里子の胸はどんよりとしている。
(また明日って言えるのも今日が最後か…)

バイト最終日。
この日は粗品進呈の最終日でもあり、客が途切れない。
石坂と言葉を交わす暇もなかった。
閉店後が待ち遠しいような、このままずっと石坂の隣りにいたいような複雑な思いで恵里子はふと石坂を見た。
目が合った。
石坂も同じ思いなのだろうか。

通用口を出て石坂と肩を並べて歩きながら恵里子は改めて思った。
(この坂を下りるのも今日が最後だな)
小田急デパートと隣の京王デパートの間には広いスロープがある。
その途中に小田急の通用口があった。
3週間、行きも帰りも通った坂。石坂と肩を並べて歩いた道。

喫茶店で向かい合ったふたりはいつもより口が重い。
今日が最後だねと石坂は言わない。恵里子も言わない。
言ったら本当に最後になりそうな気がした。
「キミは? 次のバイト決まったの?」と石坂が口を開く。
「ううん、まだ。ここが終わってからゆっくり探そうと思って」
「そうか…」
決まったら教えて、とは言わない。それが恵里子は寂しかった。
恵里子は石坂のバイト先を知っている。
でも、彼がそこを変わったらもう二度と会うすべはない。
いつ切れるとも知れない細い糸。

冷めた珈琲を飲み干し、石坂が立ち上がる。
「帰ろうか」
「うん」
答えて恵里子も席を立つ。
いつもの「じゃあまた明日」はない。
「じゃあ気をつけて」と石坂は言った。
あっけない終わり。

翌週。
恵里子はいつもの通用口ではなく正面玄関から小田急デパートに入った。
あと15分もすれば閉店時間だ。
オリーブ色のワンピース姿。精一杯のおしゃれだった。
6階の自転車売り場。
石坂の姿はすぐに見つかった。ズラリと並んだ自転車の向こうで社員らしい男性と親しげに談笑している。
やがて恵里子の視線を感じたのか、石坂がふと振り向いた。
あ! という顔をしている。
石坂の表情に気づいて傍らの男性も恵里子を見た。
笑顔で石坂に何やら囁いて離れていく。
石坂が近づいてきた。
「どうしたの?」
石坂は嬉しそうな顔で恵里子の顔を覗き込む。
「うん、ちょっと近くまで来たから寄ってみた」
もちろん嘘だった。
「まさか来るとは思わなかった」
「もうすぐ終わるからあの喫茶店で待ってて」
やや紅潮した顔でそう言って、石坂は元の持ち場に戻っていった。

恵里子は喫茶店に行かなかった。
スロープの下で立っている。
このなだらかな坂を降りてくる石坂の姿を見たかった。

やがて小走りに駆けてくる石坂の姿が見えた。
恵里子に気づくと「どうしたの?」と、また同じ問いをする。
「なんでこんなところで…」
「うん、なんとなく…。懐かしいなって」
石坂は笑って歩き出す。
ふと思いついたように、
「ちょっとお酒飲みに行く?」と尋ねる石坂。
「もう飲めるよね」
「ハタチだもん。飲めるよ」
と恵里子も軽く返す。

並んで歩きながら石坂はまた言った。
「まさか来るとは思わなかった」
恵里子は心の中でつぶやく。(2回目…)

居酒屋の前は学生らしいグルーブでごった返していた。
空くのを待っているようだ。そういえば今日は金曜日。
「無理だな…」石坂が呟く。
「じゃあ僕んとこ来る? ちょっと歩くけど近いよ。お酒あるし」
恵里子はドキッとした。
(石坂さんの部屋?)
(いきなり…?)
だが石坂はまったく邪念のない顔をしている。
一瞬の躊躇の後、恵里子は「うん」とうなずいた。

石坂の部屋は大通りから1本入った路地の突き当たりにあった。
木造の2階建て。恵里子のアパートと大差ない。
共同玄関で靴を脱ぎ、ミシミシ鳴る階段を上がった2階が彼の城だった。
部屋の真ん中にあるコタツに目を留め、
「もうコタツ?」と聞くと、「テーブル代わりだよ。電源は入れてない」と答えて、石坂は「ちょっと待ってて」と部屋を出て行った。

コタツに入って待っていると、本当にすぐ戻ってきた石坂の手には恵里子の脱いだばかりの靴。
恵里子はその古い靴に身もだえするような恥ずかしさを覚えた。
おしゃれしてきたつもりだけど靴は…。まさか脱ぐとは思わなかった。
ましてやその靴を石坂に持たれてしまうとは…。
「ここ、男ばっかりだから…。玄関に女物の靴があるとちょっと…」
と石坂の方も恥ずかしそうに笑っている。

やがて石坂はジンとコップを出してきて、ピーナツだけをツマミにささやかな酒席が開かれた。貧しいけれど幸せな酒盛り。

決して広くない部屋。ふたりは正面で向き合うことなく90度を隔てた隣りに座っている。自然な成り行きだった。
喫茶店で向かい合っていた時よりずっと近い石坂の顔。
電源の入っていないコタツに手を入れながら、この温かさは石坂の体温だと恵里子は思った。

話も尽き、多少の酔いもあってか石坂は肘を枕に恵里子の方を向いて寝転んだ。
それを身体中で意識しながら、恵里子は顔も上げず独り言のようにつぶやく。
「私、ホントはつきあってる人がいるの。でも最近…」
「石坂さんのことが…」という言葉はかろうじて飲み込んだ。
でも石坂は察しただろう。
「私は石坂さんのバイト先もこの部屋も知ってるけど、石坂さんは私の家もバイト先も知らない。私が来ない限り、会いようがないよね…。連絡も取れない」
酔いで口が滑らかになっている。

石坂が答える。
「学校知ってる」
フッと苦笑しながら恵里子が返す。
「そんな…。大学なんていつ行ってるかもわからないのに」
「正門で一日中待ってれば会える」
顔は見えないが声は大真面目だ。石坂なら本当にそうするかもしれない、と恵里子は思った。
「まさか…できるわけないじゃん」
どう解釈していいのか、石坂の気持ちが掴みきれない。

そんな思いを誤魔化すように恵里子も横になった。
石坂の方を向いてコタツに潜り込み、胎児のように身体を丸める。
石坂の顔は見えない。

しばらくの沈黙の後、石坂の手が伸びてきた。
気配を感じて思わず身体を固くする恵里子。
石坂の手は予想に反して、恵里子の頭に置かれた。
そのまま優しく撫で始める。幼子をあやすように優しく、石坂はいつまでも恵里子の髪を撫でている。言葉はない。

永遠に続くかのような時間。
いま顔を上げたら石坂と目が合うだろう。そしたら…?

なぜか耐えられなくなって、恵里子は不意に起き上がり、
「帰らなくちゃ…」と、自分に告げるようにつぶやく。
石坂は短く「うん」と答えた。

ふたりは無言で部屋を出て、駅まで送るという石坂の言葉にうなずき、肩を並べて歩き出す。
手を繋ぐこともない。ただ無言で歩く。
お互いに言うべき言葉を探していたのかもしれない。

新宿駅に着き、石坂も一緒に小田急線の乗り場まで上がってきている。
恵里子が「じゃあ…」と振り向いた瞬間、思いがけず強い力で腕を掴まれた。
「家に帰るんならいい。でも彼のところへ行くんなら行かせない」

























































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