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彷徨うおっさん26 妻への「誰のお金で生活できてると思ってるんだ」は絶対悪か?(4/4)言葉一つで家族崩壊は異常ではないか?

 前回は、夫を追い詰める妻の在り様と、「誰のお金で生活できてると思ってるんだ」の裏の本音について述べてきた。
 最終回の今回は、妻側が理解していないと思われる夫側の気持ちと、こんな事で家庭を不幸にしないでほしい、もっと考えて欲しいというおっさんの願いを述べる。

<妻側の無理解と夫側の嘆き>


 妻側からすれば、家族の幸せ、世間からの見られ方、乏しい条件の中の自身の生き甲斐の確保、友人知人のリアクションなど、色々と考えた上での要求でもあるだろう。それに妻の支えあってこその夫の収入とも言える(法律でもそう解釈している)。それも分かる。だから悪気はないものと最後まで信じたいのも男だ。

 だが、信頼できる大人の女性ならば、意見をたがえても信頼できるが、前回までに紹介した未熟な専業主婦あたりでは信頼しきれなくなってくる。
 感情論に加えて、先回りして親でも子でも何でも使って、自分の意見をかなえようとしてくるその姿に愛情は消し飛んでしまう。
 男の愛情を利用された事実。お金よりも大事な愛情すら無駄遣いした事に不信感が募る。

 そんな状況が嫌なのである、だから意見が違った時に決まって不機嫌になる妻や、事態をなし崩してくる妻を前にすると夫は死ぬほどつらい気持ちになる。その辛さを思えば、些細なことと割り切れる程度のものならいくらでも譲れる。

 だが大事な子どもの将来の話や、何十年のローンを組むような大きな買い物となると本気で悩み苦しむ。そんなことをあさましいプライドで引き受けるなど出来やしない。

 単に命がけで守りたいと思っているだけなのだから。

 だがたまに、いや、割といるのだが、男はプライドで動くなどと勘違いして、決断をためらったり断ったりする男に対して「器が小さい」だの「プライドはないのか」などという嫌な女がいる。
 命を懸ける場面である。そんな間違った認識で愚弄されて奮い立つものなどありやしない。萎える一方だ。勝手にしろと。

<なぜこんなことで家族崩壊させるのか、よく考えて欲しい>


 やや話が逸れたが、そうした無理解と感情論の応酬の果てに、妻が未熟な専業主婦をやらかしていた場合、夫は思い余って「誰のお金で生活できてると思ってるんだ」と言ってしまう事象は十分にある。当然の帰結ではないだろうか。

 確かに禁句だ。現在ではその言葉は「離婚」につながることも珍しくないほどに。だがその言葉だけで揚げ足を取って切り捨てる前に、妻よ、未熟な専業主婦を脱し、お互いの今の気持ちのすれ違いを冷静に確認してみてはどうだろうか。

・普段から夫婦の価値観のすり合わせのための会話をしているだろうか?
・夫がどんな思いで出費をし、どこまで我慢しているか知っているだろうか?
・怒ったり泣いたり、いつも感情の起伏が激しいのはどっちだろうか?
・謀略的で手段を択ばない選択をいつの間にかしていないだろうか?
・自分の気持ちや行動を、世論(女性はこういう生き物だから理論など)や巷にあふれる都合の良いだけのメソッド(色々あるが例えば、慈善事業、社会貢献、プチ起業を無謀にも目指すなど)に当てはめて正当化していないか?
・夫の忠告や指摘を軽視し、一方で牽制しあいながらダラダラ友達やっている性格の悪いあのママ友の一言などを借りてねじ伏せていないだろうか?

 そしてもう一言付け加えたい。あなたは夫を愛しているのか。
 もし愛しているならよく考えることである。

 男の方が経済力もあって立場が上であると考えられがちである(世論はそうやって男をたたいている)。だが男は家庭を持っている時点で守るものがある。その守るものを盾にとれば、男を追い詰めて操ることは案外簡単だ。その人が真っ当で優しい程。
 
 盾に取る対象は例えば子や孫、例えば自分自身(妻)を含めた家族。だがそのやりかたは卑劣ではないだろうか。

 おっさんが許せないのはその卑劣さである。
 「誰のお金で生活できてると思ってるんだ」の一言など、その卑劣さに比べればどうでもいいレベルだろう。

<最後に>


 今回の件に限らず、単純なフレーズや単語を禁句として、それだけを問題とするような風潮が蔓延して久しい。

 言葉一つで家族崩壊など異常ではないか?

 酷い言葉である事は分かるが、言わせた方に非はないのか?
 例えばいじめられた子が自衛のためにやり返したら、その瞬間にそいつが全部悪いのか?違うだろう。

 
追い詰めた末につい出てきたその一言だけを捕まえて一方的に断罪する状況が生まれてしまうのは深刻な問題だ。

 こうした言葉狩りや価値観の押し付けを是としてしまうと、家族・夫婦という、関係が近いもの同士ですら本音を出しきれず、言葉を恐れて問題が放置される。お金が貯まらない、家族が幸せになれないといった深刻な問題が燻った挙句、全員が不幸になる状況は目も当てられない。

 言葉そのものではなく、その言葉が出てくるまでの因果関係の把握、言葉そのものの捉え方もまた変えなくては、良い人間関係は構築できないのではないだろうか。

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