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湯呑、お借りします。

日曜の午後、コルドバ市街の広場に来た。ひとりでも複数でも、ほとんど皆示し合わせたようにマテを飲んでいる。傍らにはそれぞれ大きな水筒。アルゼンチンでは“cebar”というと「マテにお湯を注ぐ」という意味で、“cebador”、女性なら“cebadora”と言えばマテにお湯を注ぐ人、つまりお茶会のホストということになる。このホストがお湯を注いでは右から左へ順番にマテを渡していく。ゴボッと音を立てると飲み切ったしるし。証拠にもう一度ゴボッと言わせたらホストに返して、新たにお湯の注がれたまあるい湯呑が隣の人に渡される。なんだかちょっと、抹茶の作法に似ている。


ここに来る前にも何度かマテをもらう機会があったけど、はいどうぞと相手の湯呑を渡されると待たせているようでゆっくり味わえなかった。どこかのタイミングで自分の湯呑を買わなきゃと思っていたけど、アルゼンチンに来てこの回し飲みの習慣を知ってからは、宿でも遠慮なく湯呑とストローを使わせてもらっている。でっかい水筒片手にじっと見つめられるとやっぱりちょっとどきどきするのだけれど。


国境を跨いだチリではマテを飲む人をほとんど見かけない。マテはアルゼンチン北部で育てられるのだとヴィニャデルマールのガイドさんが教えてくれた。チリからアルゼンチンに戻ってきて、マテのある光景に再び出会った。ポットを脇に抱えて忙しくおしゃべりしながら通り過ぎるふたり組や、もう長いことそこでお茶を交わしていたような何人かの集まり。
これまで訪ねたどこの町にも「お茶を飲む習慣」って必ずあった。雨の日にソファでひとり飲むお茶も、晴れの公園で誰かと飲み交わすお茶も、心配事をひとまず脇に置いてその瞬間の幸福を味わえる。そんな慎ましい至福の瞬間て、つい当たり前になってしまう平和の結晶なのだと思う。


どこへ行っても結局楽しみはお茶を飲むことだったりする。知らない街角に座って、音やにおいや人との一期一会の出会いをお茶とともに一滴のこさずゴボッと飲み下したい。

宿に帰ったら、わたしも一杯いただこう。

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