唐突な希望の中で生きる

夏の間、掛け布団として使っていたタオルケットを洗った。異動を機に一人暮らしを始めてまる2ヶ月、そろそろ洗い時か、と何の迷いもなく洗濯機に放り込んだところ、中古で買った縦型洗濯機には荷が重すぎたのか、脱水でどうしても止まってしまう。何度かトライしたが、これ以上は、と呻き声のような機械音が響いていたので泣く泣く止めた。とんでもなく重くなったタオルケットは、偶然ベストタイミングで家に来た恋人と2人がかりでベランダへ持ち出したが、朝になっても水が絞れる始末である。仕方なくそのまま出社したが空模様が気になってついブラインドを覗いてしまう。急いで帰り、いざ感触を確かめてみる。お、乾いているぞ?と背丈ほどの位置で歓喜したのも束の間、下の方はというと当たり前だが全ての水分を受け止めてずっしりと湿り気が残っていた。おまけに、あの臭いがする。そう、いわゆる生乾き臭というものだ。ニオイ菌を生き物扱いするのも癪だが、彼奴等は湿ったところなら何処にでも出没する。人一倍鼻が敏感な人間にとってはとても許し難い事実だ。臭いに打ちのめされ、尚且つ空腹で弱ったメンタルでは対処しきれず、思わず母親に電話する。結果、実家に直送案を提示され迷わず送ることにした。長年彼奴等と闘ってきた母の冷静さたるや。箱買いしていた2Lミネラルウォーターの残り3本を取り出し、軽く畳んで詰めてみた。コンパクトに収まったソレは、あたかも嬉しいギフトかのように愉快に梱包されていた。徒歩30秒のコンビニから宅急便の発送手続きを済ませ、謎にひと仕事終えた達成感と、問題を丸投げした罪悪感が交差した複雑な面持ちでこの文章を書いている。何が言いたいかというと、人間常に落ち込んでいることは不可能ということなのかもしれない。最近、馴染みの知り合いと深夜に人生について語っていた。ある一人は、自分には人に対する諦念が心の根底にあるとか、老いに対する緩やかな絶望を日々見つめているとか、そういった話をしていたり、生きていく中で変わっていくもの(又は人)と、その逆も然り、良し悪しでは測れない価値観についてああでもないこうでもないと語り合っていた。それから数日経ち、自分の人生の根底にあるのはどんな思考法なのだろうとぼんやりと考えていたが、今回の珍騒動を受けて気づいたことは、失敗したとき、大体その数秒後には調子のいい解決方法を企んでいるということだ。もっと抽象的に落とし込むとすれば、私の中に不意にやってくるそれを"唐突な希望"と名付けたい。裏を読めば、恐らくは幼少期の神経質な性格から来る回避行動パターンの一つなのではと推測するが、にしては随分とお気楽な方向に修正されたものだ。ともかく、この唐突な希望はこれからも人生のキーワードになりそうな予感がするので、誰が共感できるのかもよく分からないこの文章を、インターネットの海の波間にそっと流しておくことにする。

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