思考の作法

こんにちは。 

與那覇開です。都内の塾で国語講師をしてます。

さて、今日は「考える」ことについて、それこそ考えてみたいと思います。近年、思考力という言葉が巷間に溢れています。入試改革の共通テストは思考力を問う試験だと言われています。そして、それに応えるように教育産業でも思考力を育てるなどと言っています。しかし、これだけ思考力という言葉が溢れているのに、肝心の思考力の中身については誰も具体的にどういうものであるか説明してくれません。思考力という言葉が、その中身を問われることなく流布してる。これはおかしいのではないか。こうした世相に対する違和感からか、船木享は次のようなことを言っています。

あなたは本当に思考しているか?-「考えろ!」とひとには言いながら、その実、たいして考えてはいないのではないか?」 『いかにして思考するべきか』勁草書房 6頁

安易に思考力を唱えているひとほど、実は何も考えていないのかもしれません。思考力とさえ言ってしまえば、それだけで何か言った気になってる。そんな風潮があります。「考えろ」とだけ言うのではなく、どのように考えるべきなのか、いわば思考の作法ともいうべきものが今問われているのではないでしょうか。やみくもに素振りを繰り返すまえに正しいバッティングフォームを習得する必要があるように、考えることにも一定の作法があるように思います。以下、思考の作法について私なりにまとめてみます。

とにかく、たくさん本を読むこと

当然ですが、考えるためにはその材料となる知識が不可欠です。知識を蓄積することは思考力の土台です。知識はいくら溜め込んでも荷物になることはありません。逆に知識が不足しているとなかなか有益な意見は出てきません。例えば、「沖縄の基地問題について、自分の意見を述べよ」と言われても、日米地位協定もSACO合意も知らないというのでは、まともな意見なんて言えるはずがありません。豊富な知識を蓄積するからこそ、問題意識を育てることができ、深く考えることができるわけです。では、そうした知識を身につけるにはどうしたらよいか。それは、やはり読書をすることでしょう。できれば、興味がある本だけではなく、幅広いジャンルの本を読むことをお勧めします。複数の思考の補助線を獲得することで物事を多角的に見ることができるからです。


自分の頭で考えること

ギュスターヴ・ル・ボンに『群衆心理』(講談社学術文庫)という名著があります。いわゆる大衆を論じた本なのですが、ル・ボンが知識人対大衆という二項対立の構図で論じていないところが興味深いです。ル・ボンが言いたいのは、人は群れるときにこそ盲目な大衆になってしまうということです。これは知識人も例外ではありません。「個人が群衆に加わるやいなや、無学者も学者も、等しく観察の能力を失う」からです(48頁)。個人が集団に埋没したとき、そこに思考力はありません。なぜなら、それは他者の言説に乗っかってるだけだからです。自分の言葉で自分の論理を構築しないとき、思考力は衰退に向けて加速します。もちろん、他人の意見を聞くなということではありません。まず、自分の頭で考えてみようということです。

ビオスとしての生を語る

とはいえ、自分の頭で考えるということは、自分の快不快のみを基準にした思考になってしまうのではないか、こういう批判もあると思います。これはこれで正しい批判です。この壁を乗り越えるためには、どうすればよいでしょうか。少し難しい話になりますが、哲学の分野にゾーエーとビオスという言葉があります。ゾーエーとは生物的な生のことをいいます。一方で、ビオスは「いかに生きるか」という社会的な生のことをいいます。人間は生物である以上、水を飲みたい、寝たい、セックスしたいといった生物的欲求に突き動かされるゾーエー的な存在です。しかし、一方では、真理とは何か、自由とは何か、正義とは何かという生を意味づけるビオス的な存在でもあります。思考するとき、自分の快不快のみを根拠にするとしたら、それはゾーエー、つまり生物的な生をさらけ出しているだけです。「他人がどう思おうが、俺はこう思う」というのでは、ビオス的な存在としての人間の思索にはなりえません。ビオスとして生を語ることは夜郎自大な語りを脱して、他者との開かれた対話につながります。

ここまでの議論をまとめます。我々がなすべきことは、とにかくたくさん本を読み、群れることなく自分の頭でしっかり考え、なおかつ、ビオスとしての生を語ることなのです。これが私の考える思考の作法です。

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