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1月④ 白波の立つ機具岩海の果て(能登半島外浦の夫婦岩)

   写真:「機具(はたご)岩」@能登半島外浦海岸(撮影:薩摩嘉克)

 「地の果て」という言葉で思い出す場所のひとつに鳥取県の境港があります。県庁所在地の米子から、日本海と中海を隔てて延びる弓ヶ浜半島の北西端に位置する境港には、JR境線を使って約45分で到着します。

 この街は『ゲゲゲの鬼太郎』の作者として余りにも有名な水木しげるさんの故郷です。で、街の中心を通る道路には彼の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターを中心に、日本各地の妖怪たちをモチーフにした銅像など多数のオブジェが設置されていて、最近は結構な観光客で賑わっているようです。

 ところで、冒頭で境港を「地の果て」呼ばわりしました。が、20世紀のはじめごろの境港は「地の果て」というよりは「海の果て」にほかならなかったようです。

 それは、こういうことです。当時、日本各地で今はJRを名乗る国有鉄道の建設工事が盛んに行なわれていました。鉄路の建設には、そこに走らせる鉄製の線路をはじめ、大量の物量が必要とされます。
 それらを運ぶ鉄道のなかった時代、それらがどのようにして運ばれたかというと、船で運んで境港に陸揚げし、そこから米子に向けて線路を敷設していったのでした。つまり境線の工事は境港から始まったわけです。ここに境港を「海の果て」と呼ぶゆえんがあります。

 ただ、境線と山陰線が結ばれ、それを用いた陸上輸送が容易になった瞬間に、境港のイメージは「海の果て」から「地の果て」に変化してしまいました。が、今後、その境港が海上交通の要衝として諸外国との交通の要衝に変化しないとも限りません。
 あらゆる場所の位置づけは、時代の波に洗われて、変転を繰り返すもののようです。

 中国大陸から季節風が吹きつける真冬の日本海の「地の果て」の風景である。が、見方を変えれば、それは「海の果て」でもある。

 実際、奈良時代の初頭から200年余、中国東北地方で栄えた渤海の使節が34回、日本の使節も15回、日本海を往来した。そのとき最も頻繁に用いられたのが、使節を迎える客院のあった能登西岸の富来町福浦である。

 不思議はない。最初の使節は現在の秋田・山形に当たる出羽海岸に漂着した。が、以後は豆満江の河口から冬の季節風に吹かれて日本をめざし、近づくと北東に向けて流れる対馬海流に乗ることで日本海に突き出た能登半島に到着するようになった。

 ただ、冬の日本海の北西季節風は半端でない。のどかな沈降式海岸が連なる能登東岸の内浦と、海食を受けた安山岩が荒々しい景観を見せる西側の外浦を比べれば、そのことが理解できよう。そんな半島の外浦海岸に屹立して純白のしぶきをあげる機具岩(はたごいわ)という名の奇岩の姿は世界的にも稀な風景なのだ。

 そういえば自然の姿形をとどめる岩石を庭園に用いるのは日本特有の文化であった。そのことを平安末か鎌倉初期に成立したとされる最古の庭園書の
『作庭記』は、

 「石をたてんこと、まず大旨をこころふべき也」

 石は「置く」のではなく「立てる」のだといい、かつ、石の「こはん」に従う、つまり「石が乞い願っているように立てる」のでなければならないという。なるほど、富来の海に立つ別名「能登二見」の夫婦岩「機具岩」にも強い「こはん」が秘められているという気がしないでもない。

 ところで、これら2つの岩は、陸上交通が未曾有の発達を遂げた近代という時代には「地の果て」でしかなかったのだろう。が、日本の各地が世界とつながる新しい時代には、この場所が国際間の海上交通を媒介する「海の果て」として読み変えられることに気づき始めているかも知れない。

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