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【note】096 「東大」に「寺」を付ければ「東大寺」:どこかが似ていますね

    写真:東大寺の盧舎那仏と東京大学の安田講堂(Wikipediaより)

 四国八十八か所の巡礼のマネゴトみたいなことを試みたからでしょうか。中学校の社会で習った日本への仏教の伝来や定着の話を思い出しました。

 聖武天皇(701~756)在位の天平時代(829~749)は災害や天然痘などの疫病が多発しました。
 そこで彼は、中国から伝わった仏教に帰依し、仏教に基づく国造りをめざしたのだといいます。

 当時のアジアの先進国は中国でした。学問や技術や文化にも優れたものがあったわけです。
 それらが仏教と共に当時の首都の奈良、なかでも東大寺に伝えられました。
 その東大寺の正式名称は金光明四天王護国之寺、ご本尊は「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)だ。

 で、聖武天皇は東大寺に伝わった仏教と最先端の学問や技術や文化を全国各地に伝えようと考えました。

 そこで全国各地における国分寺と国分尼寺の建設を構想し、それを実現したのです。ただ、これらの事業は莫大な国費を費やし、国の財政に大打撃を与えたとも言われるます。

 以来およそ400年、高野山や比叡山で仏教の新しい展開に手をつけた空海や最澄が登場します。
 そして浄土教や禅といった日本的仏教への再編成が行なわれたのです。

 こうした動きが仏教の伝来地の奈良ではなく、平安京という別の場所で行なわれたことは興味深い。

 ところで「東大寺」から「寺」を取ると「東大」になります。
 いうまでもなく東大こと東京大学は首都にある現代日本の最高学府です。
 その本来の役割は創設の明治以来、欧米を中心とした先進地域の最先端の学問や技術を取り込み、それ以外の大学をはじめ日本各地に伝えることでした。

 「東大」は、奇しくも奈良時代に「東大寺」が果たしたのと同様の役割を期待されたのです。
 という意味で東大は、首都東京以外の場所における学問や技術の日本的な再編成と創造 の挑戦を受け続ける「打倒の対象」としての役割を期待されたのだといえるのかも知れません。

 では今日、「東大の学や知」を「打倒する側」とは一体、いかなる存在なのでしょうか。あらためて考えてみると興味深いのではないかという気がします。

 いずれにしろ、こうした図式を想定しながら、現代日本における学問や技術の諸外国からの輸入と国内における再編成と創造の試みのありようを考えてみると、何か新しいことが見えてくるかも知れません。

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 お役に立つかどうかは微妙ですが、随所で、お笑いいただけると思います。


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