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11月「山形市・立石寺の紅葉」

 山形市の北東にある立石寺天台宗の有名な山寺です。けわしい山壁に展開する、その姿は不思議な美しさに彩られています。しかし、それだけで天下の名勝の一つに数えられるほど有名になったかというと、どうもそうではなさそうです。
 と述べたところで思い出しているのは当然のことながら、つぎの一句です。

   閑さや巌にしみ入蝉の声

 余りにも有名なこの句は、1689(元禄2)年、旅の途上にここを訪れた俳聖の呼び名も高い松尾芭蕉が残したものです。『おくのほそ道』の、この句の直前に記された文章には、こう記されています。

 「……岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ」

 つまり、この句が誕生したのは「佳景寂寞」のなか「巌にしみ入る蝉の声」が芭蕉の鼓膜を振るわせた瞬間に、彼の内面の「閑かさ」が際立った結果の脈絡がもたらしたものであるようです。

 むろん句の解釈は読む人の自由です。ただ、先人の残した17文字を女流俳人の黛まどかは「置き手紙」と呼びます。それに触れて、その思いを反芻した後世の人は、みずからの心身の赴く先を確かめるために、ときに現場に足を運ぼうとするのでしょう。

 モノやコトに関する事実の記述だけでは、こんな結果のもたらされることはありえないでしょう。それらを誰かが「物語った」ことに触発されて、人はそこを訪れようとする気持になるのではないでしょうか。それが「ものがたりの力」というものだと思います。和歌に引証された歌枕の多くが人々を呼び寄せるのも同じことなのです。      (写真:Wikipediaより)

 イチョウは葉緑素が分解し、カロチノイドの黄色が現れて「黄葉」する。カエデやハゼは落葉寸前、葉の栄養分がアントシアンなど、赤色の物質に変化して「紅葉」する。で、人は木々が冬支度を始めたことを知らされる。

 「紅と黄」の区別は煩雑なので「紅葉」と一括する。ただ、それが見られるのは、ヨーロッパ、中国の東北地方、アメリカとカナダの国境地帯、そして西日本の山地と東日本一帯ぐらいに限られる。不思議はあるまい。熱帯の植物は一年を通して緑だ。寒帯の植物には針葉樹が多い。砂漠や草原には樹木そのものが生えていない。

 ところで、日本の夏は極度に暑い。芭蕉が、ここ山形の宝珠山立石寺で詠んだ「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」という句には、あたりの静謐とともに、芭蕉の心身に「しみ入る」暑気のイメージが彷彿する。
 が、やがて秋が深まってくると、草木に覆われた山地に冷気が満ちてくる。で、さらに一段とそれが深まったなと思う朝には、あたり一面が鮮やかに紅葉している。日本人なら、随所に苔むした峻険な岩を抱く、そんな樹林の美しさを目にすると、冬の寒さを直前にした厳しくも快い心身の引き締まる思いに浸るのではなかろうか。

 それはまた、広く民衆に平易な言葉で仏の教えを説く顕教とは異なり、自己の神秘的な宗教体験を追求する密教の道場にふさわしいのかも知れぬ。だからこそ、天台宗の始祖である最澄の弟子・円仁(慈覚大師)は、ここに山寺を開いたのであろう。
 その円仁が、この地方を治める狩人の磐司磐三郎(ばんじばんざぶろう)と出会って殺生を戒めた。と、狩りにおびえてきた動物たちが喜んで踊ったという。それが「シシ踊り」という民俗芸能として今に伝わっている。

 不思議な造形の仏寺は、紅葉に燃える山の自然をやんわり守ってきたのだろう。その風景は、神仏や樹木、動物や人間の営みが渾然一体となって、冬枯れ直前のお祭りを催しているように見えなくもない。

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