10月③ 潮風に吹かれ草食む馬の秋(島根県隠岐郡西ノ島町)
写真「岬の秋」(撮影:薩摩嘉克)
さっそくですが、戦国武将などが乗ったとされる日本の在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬としてモンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された蒙古馬でした。
その体高(地面から背中までの高さ)は130センチ程度だったようです。
それに比べると、現代の競馬場で出会うサラブレッドの体高は160センチを少し越えるぐらいです。
ですから、時代劇映画などで颯爽と大きな馬に乗って登場する戦国武将の姿は、実際にはあり得なかったものだったのでしょう。
ところで、ここで紹介する島根県の西ノ島で放牧されている馬は「走らせるサラブレッド」とも異なる肉用馬のようです。
こういう話に出会うと、日本における馬の伝来とその歴史にも興味深い事実がたくさんありそうだという気にさせられます。
たとえば島根県の隠岐諸島には「牧畑」という畜産と農業の複合システムが現存しています。
その歴史は古く、その記録は鎌倉時代に編まれた史書『吾妻鏡』にまでさかのぼるのだそうです。
ただし、1960年以後は「公共牧野」として肉用牛馬の放牧が行なわれているのみとなりました。
つまり西ノ島の住民は1 頭あたり年間 5,500 円の放牧料を支払えば、公共牧野で放牧を行えるのです。
で、肉用馬に関しては、子馬を熊本などの馬肉生産地に販売するビジネスモデルを採用しています。
そんな西ノ島の断崖の上の草原で、馬たちが潮風に吹かれながらのんびり草を食む風景は、絶景と呼ぶにふさわしいものだと思います。
インターネットによる情報通信は最初、学者たちの情報交換で始まった。が、まもなく軍事的な役割を期待され、今では誰もが参入できる情報メディアになった。
その機能の一端を、昔は、大陸から伝わった馬がはたしていた。
げんに鎌倉幕府をひらいた源氏の武力は、乗馬による機動力を主な基盤にしていたという。それが後には情報伝達のために使われ、江戸時代の経済の繁栄をささえたのである。
その馬と日本人が出合うのは、今では競馬場ぐらいに限られる。
しかし、ここ島根県沖、隠岐諸島の西の島におもむけば、玄武岩の溶岩台地で草を食む馬の群れに対面できる。
というのも、ここでは最近まで、日本で唯一、土地を四区にわけ、第1区で夏の放牧と秋の麦まき、第2区で前年の麦の収穫と夏の放牧、第3区で粟や蕎麦の栽培と冬の放牧、第4区で大豆の栽培と冬の放牧を順次、正確にくりかえす、ヨーロッパの三圃制に似た土地利用が行なわれていたからである。
無論それは今後よみがえるまい。
しかし、高く晴れわたった秋空のもと、沖に棚びく白い雲をさかいに濃紺に澄む日本海をのぞみながら、なかば野生にもどった馬たちに接すると、世俗に氾濫する情報に律せられがちな現代日本の生活のせちがらさに、あらためて気づかされる。
そうなのだ。普段は多忙にまぎれて忘れているが、もっとも身近な「野生」は、自分自身の体にある。
ならば、栄養のかたよりを雑誌に指摘されて栄養補助剤の摂取につとめるより、いま自分の体が何を食べたがっているかに耳をかたむけ、運動不足をジムでおぎなうより、気の向くままに歩きつづけたい。
それこそが「まっとうな生活なのだ」ということを、しきりに草をはむ馬たちの姿は、ぼくらに語りかけているような気がする。
この記事と直接の関係はないのですが、ぼくは、こんなキンドル本を出版しています。
無論、Kindle Unlimited なら、無料でダウンロードできます。お読みいただけると、大喜びします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?