自分が見にくい人への小話。

みにくいアヒルの子と言う話をご存知でしょうか?

ネタバレをするとアヒルの子はハクチョウでしためでたしめでたし。と言う童話です。

因みにアヒルの子とハクチョウの子の違いを画像で見てみましょう。

どちらがどちらか分かりますか?
両方可愛いと言うことしか分かりませんね。(上がアヒルで、下がハクチョウです)


アヒルからハクチョウへ。自身の活躍の場が単純に間違っていただけのお話。そう、価値基準が自身の身の丈に合っていれば、自然と評価されると言う至極自然なお話です。

これは根本的に『努力』とは関係がありません。
アヒルとハクチョウのお話は、努力でどうにかなる。といった類の話ではありませんし、万が一そうだったとしてもアヒルの子状態でできる努力で拓かれる道はほとんどないでしょう。


努力することが悪いことであるとも、良いことであるとも言いません。
ただ物事には「適当」がある。それだけです。


一説によると、音楽と数学の習熟は多くを才能に左右されるとのことです。
どの程度の割合で、どの段階から、どういった具合で左右され始めるのかは分かりませんが、若い頃から数学者を志していた方が、いつの間にか弁護士になっていたと言うのは中々感じるものがあります。

そう考えると、努力は無意味ではないとも言えますが
アヒルの子ではなかったと知ったハクチョウは、どんな気持ちだったのでしょうか。
ハクチョウであることを手放しに喜んだとは、とても私は思えません。


ハクチョウの子がアヒルの子として生きてきた時間は
何だったのでしょうか?


周囲からの観測からすれば、弁護士は立派な職業であり、今後の人生においてほとんどのことが自由になるだろうと想像します。
しかし、本人にとっては「苦虫を噛み潰す」思いで数学を手放したことでしょう。自分を納得させるために、何度も何度も弁護士は凄いんだ偉いんだ!と念じながら。


私は数学者でも弁護士でもありません。しがないエンジニアであり、数学も数学者ほど愛していませんし、弁護士になって悪と正義を生業にしたいとも思いません。
なので、想像でしか彼らを理解してあげられません。

もし、もう少し時代が進んでいれば彼らには「機械学習エンジニア」としての道があって「数学」で生きることが容易だったことでしょう。
時間は進めることも戻すことも現代はできません。彼ら/彼女らが生きていた時間軸の中で、彼ら/彼女らはハクチョウだったのです。


誰でも、このような経験があると思います。
アヒルの子であると信じて疑ってなかったのが、ある日突然ハクチョウであったことを自分で理解してしまいます。
周囲から見れば、それはそれは綺麗に見えるでしょう。

しかし、本人たちは決してハクチョウであったことを喜んではいません。
もしかしたら、喜ぶ人もいるかもしれませんが、そう言う場合は元々ハクチョウになることを望んでいたハクチョウの子だったのでしょう。


誰しもが、自分自身は目標や夢に到達できる。もしくは、願いを叶えることができると信じて疑っていません。
そのために努力を惜しみませんし、努力することで自身への納得を生み出していくことができます。

良い大学に入ることで、良い環境を得ることができることを知っているならば、受験勉強を頑張れば良いと言うのは自明です。

受験勉強ほど、才能がいらないものもないと思っています。努力でカバーできる範囲がかなり広いからです。
世界ランキング10位以内の大学に入ろうとするならば、それはまた勝手が違いますが、こと日本の大学に限って言えば苦手と得意の点数バランスをきちんと取りさえすればほとんどどこでも入ることができます。

そこにはアヒルもハクチョウもありません。
親の年収や取り巻く環境と言う部分では、どうにもできないところがあるかもしれませんし、それは本人がアヒルだろうがハクチョウだろうが関係ないのです。

大学に入った後、そこからアヒルとハクチョウが明白になっていきます。

努力できる範囲を超越した何かに押しつぶされるように、アヒルになれない事実がそこには潜んでいるのです。


では、ハクチョウであることは不幸なのでしょうか?

ハクチョウになれなくて泣いているアヒルの子もいるはずです。
ハクチョウから見れば、アヒルであることは幸福なのになぜ泣いているのか理解できないでしょう。

ハクチョウもまた、周囲からの観測者になってしまえば自分が体験していた境遇をすっかり忘れてしまうのです。
アヒルであることに幸せを見出せないのは、ハクチョウであることに幸せを見出せないことと同じことです。

アヒルであろうとするハクチョウは、いつまでも不幸でしょう。
もしくは、不幸であることに幸福を見出していくかもしれません。

本人にとっての幸福は、周囲からは見えません。
数学者になりたかった弁護士は、収入や人脈と言う面では数学者よりも伸びていく可能性があります。本人には、論理の才があって答弁や議論で他の追随を許さず、無罪や有罪を意のままに操れるかもしれません。

もし、彼/彼女が弁護士であることに劣等感を感じていたら、それら全ては単なる残り物としか見れないでしょう。数学者になりたかった自分の残骸であると。

しかし、彼/彼女がそれは数学からの贈り物であると思えたならば、それらは聖遺物として今まで以上に人生を後押ししてくれるかもしれません。そして、それは幸福な考えや人生に繋がっているような気がします。


結局、アヒルもハクチョウも鳥類。

アヒルの子がハクチョウであることを「不幸」と感じるのは、アヒルをアヒルとして、ハクチョウをハクチョウとして観測した時です。

であれば、もう少し上の視点から2つを見てみれば良いのです。
そうすれば、アヒルもハクチョウも鳥類であり、ちょっとした違いはあれども大勢に影響はない。ということが分かってくると思います。
この視点を持てるかどうかが意外にも大事な気がしています。

弁護士になったからと言って数学に一切携わってはいけないわけではありません。数学者になったからと言って法律を知らなくていいわけでもありませんしね。

やりたいことは形を変えただけで、実は何も変わってなかったりするのです。


最も変わってしまったのは、自分自身を見る「目」です。
(みにくいアヒルの子だけに)


過去の自分も自分だし、今の自分も自分なのだから
自分が自分であることを手放す必要はないのです。

数学"巧"者x弁護士。これはハクチョウよりも凄いかもしれません。
数学者x法律"巧"者。これもアヒルなんか目ではありません。

結局、好きでやり続けてきたことや好きであったこと、得意だったことが自分を強くしてくれるのです。


なんでもいいのです。
例えば
翻訳"巧"者xマラソンランナー
農家x運転"巧"者
ゲーム"巧"者x経済学者
プログラマーxワイン銘柄"巧"者


掛け算ですから、いくつ連ねたって構いません。昔、訳あって諦めてしまったことを今一度掘り起こしてみてはいかがでしょうか?


やって来たことに自信がない?やって来たことで巧みになったものがない?

おめでとうございます。あなたはハクチョウになっていたのですね。
ただ当たり前すぎて感じていないだけで、過去のあなたが積み上げて来たものは今にちゃんと生きていますよ。

まずは、自分がハクチョウであることに気づいてください。そして、アヒルでなかった自分を責めるのではなく、ハクチョウとなったからこそできることと、アヒルの時に培った経験を掛け合わせて大空に舞い上がりましょう!



では。

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