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第2回 部屋になにもなければいい――ヨルシカとあの夏のCDについて

 突然だが、ぼくはヨルシカというバンドにハマっている。ヘビロテの毎日だ。
 このバンドを知らない人はいない……というような表現をするにはネット界は蛸壺化が進みすぎているだろうか。まあともかく、ぼくと同じような文化的トライブに属しているようなサブカル好きにはおなじみの、夏をテーマとして扱うことの多いバンドだ。コンポーザーやギタリストとして参加しているn-bunaという人物は、ボーカロイドを使った自作楽曲をニコニコ動画を中心に投稿している。この名前のほうでピンとくる人もいるのではないだろうか。

 ぼくがヨルシカを知ったのは、まさしく先んじてn-buna氏をフォローしていたことに起因する。彼の作る楽曲のいくつかは口ずさむほどには気に入っていたし、アルバムも通しで聴いては味を確かめていた。そんな春先、彼が新しくバンドを組むのだというから驚いた。『靴の花火』という実質的なデビューソングも公開とほぼ同時に聴いたことを覚えている。

 CDの発売日、横浜のタワーレコードで『夏草が邪魔をする』という彼らのミニアルバムを買って、次の日の通学電車で通し聴いた。見解はさまざまあると思うが、一聴してから変わらないポップな印象がぼくにリピートボタンをタップさせた。お生憎様その日の天気なんかは覚えていない。でもそれから夏休みに入るまでの1か月間、毎日のようにそのアルバムを聴いていた。その日々のなかでのぞいた晴れ間に似合った切なさと、うだっているくせに溢れた寂しさをいだきながら。

 それからずっと、ぼくはヨルシカの新譜が出るたびに買い求めては、聴き惑っている。
 

 2017年の夏にそんなバンドとの出会いを経験するよりも先に、ぼくは1つくだらない失恋を経験していた。たぶん人生で1番好きになった人だったのではないだろうか。今のぼくにはよく分からないけれど。2016年の夏に付き合ったきっかけも、同年の冬に別れた理由も、ぜんぶどうでもいい話だ。
 ただ、ヨルシカに出会ってから間もないころの自分にとっては、どうでもいいはずがなかった。途方に暮れていたし、困ってもいた。いつまでも想いを引きずるつもりもなかったので、何人かの人とデートに赴いていた。楽しかったけれど、まだそのなかの誰とも付き合ったりはしていなかった。

 ぼくは高校生のころから自分で自由にできる金銭を一定量、音楽媒体へと投じていた。感情がいくら浮き沈んでも、音楽だけは常にぼくに寄り添ってくれていた。それにいっそうすがりつくように2017年の上半期は流れていった。ヨルシカはその時流に乗っかるようにしてぼくのもとにやってきた。失恋から逃れるように音楽を聴き漁っているあいだに、今まで聴いてこなかったボーカロイド関連の曲と巡り合ったからこそ、それは実現したのだ。

『夏草が邪魔をする』を聴きながら、ミニアルバムという形でこれ以上に完成度の高いアルバムはあるだろうかと考えていた。完成度とはなかなかお笑いで、ぼくは音楽的な知識も能力も才能も、すべてにおいてなんにも持っていなかった。にもかかわらずそんな三流以下の批評家チックなことを考えていたわけだ。
 まあともかく、これ以上の音楽はないのではないか。そんなことを思ってしまったのだ。

 もちろん本当はそんなことはなかったのかもしれない。というより間違いなくそうだったと思う。
 そんな未来からの見解なんてしるよしもなく、ぼくはそれまでの学生時代、なけなしの懐を切って手に入れたCDを売り始めた。はじめはEPやシングルCDを、しだいにアルバムを。とはいっても大した数でもなく、300枚ていどだったと記憶している。何回かに分けて、横浜のディスクユニオンに大きな袋を抱えていった。

 ぼくの部屋には本しかなくなった。

 その行為を失恋が関係しているのか、よくは分からない。ヨルシカのCDが傑作だったことが本当にきっかけだったのかだって定かのはずがない。
 ただそのときのぼくは、喪失を繰り返して、そのなかで残った1つのしずくを愛そうと躍起になっていたのだろう。
 あのころを過ごしていた相手には、悪いことをした。

 ただ、『夏草が邪魔をする』はミニアルバムだ。ボリュームだって聴くべき季節だって限られている。秋がきて、そのときに出たイベントでヨルシカに影響を受けた本を頒布した。そのころにはもうヘビーローテーションもやめていた。頒布した『青い鳥』という小説は、捨てたも同然だったCDの代わりとしてはどこか足りない心地がした。
 そのイベント、文学フリマ東京では40冊ていどの頒布数だったことを記憶している。悔しかった。自分はこのていどなんだと悲しかった。けれど認めてくれる人もいるのだと嬉しく思っている自分もいて、どうすればいいのか分からなかった。
 
 家に帰ればヨルシカと、ほんのわずかに残った数枚のCDがぼくを待っていた。
 もっとたくさんのものを捨てたいと思った。ぼくはそれから約1年後、kindleの端末を買い多くの蔵書も売りに出した。今はまた物理書籍が増えてきているが、物として存在しない本も多くある。そのほうが心地がいいと思うときがある。くだらない変化だ。

 
 ぼくは夏が嫌いになった。扇風機を出したり、仕事の関係で部屋の掃除が追いつかなくなるから。
 

 あれからもう2年が経とうとしている。残念ながらぼくはあれからなにかを達成したわけでもなければ、偉くなったわけでもない。
 誰のことも幸せにしていない。誰かに幸せにしてもらったわけでもない。

 けれど、悲しいかな大学近くのバス停で夏の日差しを浴びることは叶わないのだろう。ぼくはあのころから大して変わっていないのに、あのころに戻ることはできないのだ。
 誰を待っていたわけでもなく、ただバスを待っていたぼくは、本当は誰かのことを待っていたのだと思う。
 別れた彼女のことを待っていたわけじゃない。それは確かだ。でもその当時会っていた誰のことも、ぼくは待ってなんかいなかった。

 だから独りなのだ、自分。

 
 そのバス停で、バスを待つことを辞めて駅まで歩いたことがある。遠回りをして、40分かけて駅まで歩いた。山のなかにある道だったおかげで、歩道には空き地からはみ出た夏草が飛び出していた。

 2017年の夏だった。ぼくが恋人を失ってから訪れた、最初の夏だった。

 その次の夏には、ぼくには新しい恋人ができていた。あの夏には戻れない。あの夏草は今も歩行者の邪魔をしているのだろうか。
 
 
 ヨルシカも、先日新譜である『エルマ』というフルアルバムをリリースした。
 ぼくの部屋にはまた1つ、ものが増えた。

 ふたたび断捨離をするとして、ヨルシカのアルバムはずっと残り続けるのかもしれない。そうでないほうが幸せなのかもしれないけれど。

 青年の喪失と葛藤を描いた『だから僕は音楽を辞めた』に続くアルバム、『エルマ』は非常に洗練された音作りで、亡き者を追い求める感情が溢れんばかりだった。とてもよい作品だった。だからぼくは思い出について書いた。

 どうでもいい思い出について、だ。

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