殺したい子

第4回 獣の輪郭――三好まをという才能について


『殺したい子』という作品を2019年11月24日、文学フリマ東京というイベントで頒布する。ぼくが二年以上前に書き上げた『灯色の風景』という作品のリメイクに当たるものだ。今回はそれにまつわる話をしようと思う。

 ぼくがこの作品をリメイクするにあたって、表紙を一新しようと考えた。それにはかなり個人的な思いやら経緯やら、とにかく公的な場で話すべきではない事情が多分に含まれている。だからそこに関してはご想像にお任せするしかない。
 ただ、新しく表紙を描いていただくイラストレイター様を探し、結果としてこれ以上にないほどの人選ができたことは幸運であったし、なおかつ公的に発信しても構わないであろう理由であふれている。今回はそんな話になるだろう。

 つまりぼくは、三好まをさんというイラストレイターについて語りたいのだ。


 
 三好さんのイラストを見て、まず最初に感じたのは「不均衡さ」だった。パースが狂っているだとか、輪郭がおかしいだとか、そういう意味ではない。
 正体は分からないものの、どうしても惹かれるものがあった。本当に最初は、それだけだった。


 三好さんの絵は、一見すればキャラクター絵と表現すればいいか、ある程度ディフォルメされたキュートな人間が描かれている。
 しかしながら、いくつかの絵では陰鬱な印象を受けるものもあるし、人物がなにを思っているのか、ドキリとするくらい想像がつかないものも多い。
 ぼくが最初に三好さんの絵で好きになった「熱を冷まして」などはその顕著な例ではないだろうか。

 その陰鬱さやアンニュイさは、キャラクターの表情によるものだけではなくキャラクター全体を描く際のタッチによるものなのではないか。イラストを拡大してみたりすれば、キャラクターの身体や服装の上に、何重にも描かれた影や光の加減が見てとれる。きっと三好さんのイラストの本質は、この輪郭の内側にある光と影にある。

 光とはなにか。物理現象として考えればなにか物体があり、そこから光が跳ね返っているからこそ、ぼくたちはその物体を視覚でとらえることができる。こんなものは常識だが、もう一つ常識を重ねたい。光はどこにあるのかということである。
 光とは、よっぽどの例外を除いては、自然現象として発生することはあまりはない。ほとんどの生物物体にとって、光に対しては受動的なものであり、能動的に発生させられるものではない。こと人間においてはさらに顕著だろう。道具などによってあたかも光を操るような気になることはできるが、光の源になっているものは調達してくるほかない。光とは、人間に宿っているものではない。人間の外側にあるものだ。そして、人間を見ている人間にとっても、つまりはイラストを見ている人間にとっても、光は外側にある。光とは、イラストと人間の間に存在しているものであるのだ。

 前述した通り、三好さんのイラストは光と影の描写が非常に細かくなっている。つまりは三好さんは、キャラクターとそれを見ている人間の間にある光について描いているイラストレーターだ。
 次は人間から反射している光や、反対に影を描くことの意味や効果についても考えていきたい。

 一般に、人間を描くにあたり一番外側にある線をしてぼくたちは輪郭を規定している。
 以前、これは本当に内々の文章なので分かりようはないのだが、ぼくはイラストにおいての輪郭というものについて論述した文章を書いたことがある。そこでの文章を要約すると、人間には二つの輪郭があるということが語られていた。人間は洋服を着ている。つまりは文明を持っている。そして肌というものも同時に有しており、身体の輪郭(肌)と人間の輪郭(服)は異なるのだということ指摘していた。
 そして、三好さんのイラストについて考えているうちに、もう一つの輪郭線を見いだせるのではないかと考えた。ぼくはその輪郭を「獣の輪郭」と呼びたい。
 
 どういう意味か、まず、その輪郭はイラストで描かれた人物の外側の線を表すものではない。単純な輪郭線では、肌か洋服の二択を迫られてしまうからだ。
 鋭い方ならもう気がついているかもしれない。そう、ずいぶん長く語っていた光の描写というものが、ぼくが規定する「獣の輪郭」なのだ。

 三好さんの光の描写は、つまりはキャラクターの身体から受け手の眼球に至るまでの間に存在している。
 これは、キャラクターの外部に存在している「毛」としての役割をはたしているといえないだろうか。

 一般的に人間の輪郭は、肌と洋服の二つだ。それは横軸の輪郭線に限った話であり、立体的に空間を規定すれば、そこには光が飛び交っている場所がある。そこにある光に、執拗なまでにこだわっていく三好さんは、さながら人間の肌に獣毛を生やそうとしているように、ぼくには思えたのだ。


 三好さんの描く光が獣毛であると言っているのには、他にも理由がある。
 
 今でこそAIの普及によって、人間性とは不正確であることであったり感情的であったりすることであると考えられることが多い。この議論自体は、産業革命期に、人間ではないものとして機械が出現することによって始まったものだ。しかし、ここ数百年を除いてしまえば、人間ではないものは獣であって、獣性の反対に人間性というものが規定されてきた。
 
 つまりは、理性的な人間と感情的な動物が対比されてきた歴史というものが存在しているのだ。三好さんのイラストには、そういった人間性と獣性がない交ぜになった表象が浮かんでいるように思われる。
 機械化が進んだ社会において、人間性とはそのなかに獣性を搭載する形で拡張されてきた。人間とは所詮獣であると、誰もが知るような時代になった。

 そんなパースペクティブを、三好さんのイラストは光と影を、輪郭線の内側に描きこみ続けることによって描いて見せる。
 人間は獣であるという、圧倒的な凶暴さを宿しながら、あくまでもキュートでアンニュイな女性を描いてみせるのだ。

 それは立ちはだかる山脈に感じる崇高さに似た、あらがえない絶対さを感じさせる。
 
 人間の外側にある、光をコントロールしようとする意志と、それを可能にしてしまう能力が三好まをというイラストレーターには備わっているのだ。
 それが可能にしている世界観は、ぼくが小説で描きたいと思い続けてきたそれと、距離は遠くないように思える。

 ぼくは風景というものについて考えてきた作家のつもりだ。
 風景とは、その輪郭や記号になんらかの感情を載せることによって人間が受け取ってしまうイメージの総称だ。

 三好さんが描いている人間に「毛」が生えているように、ぼくが書く風景にも、見えるそれではないなにかが浮かび上がることを祈る。

 そして、その萌芽となる作品が『殺したい子』であるといい。編集作業も架橋となっている本作だが、主人公の少女に宿った獣性と、彼女が見ている風景の暴力へ、ぼくは今、必死で手を伸ばしている。


 三好さんが見ている光を、自分でも表現できたらと足掻いている。



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