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第1回 物語の時間と空間――あるいは愛する人への愛撫について

 

 初回となるnoteへの投稿をお届けする。ここで初めてぼくの名前を見かけるという方も少ないだろうが、ともかくは自己紹介をさせていただく。


 ぼくは転枝(ころえだ)という名前で小説を書いている人間だ。自らの書いた小説のデータを定期的にオンデマンド印刷を取りあつかっている印刷所に入稿しては、送られてきた同人誌をおもに文学フリマ東京というイベントで頒布している人間だ。つまりは同人作家だ。

 ただ同人作家というものは、それ以上どのような自己についての言及をするべきなのかというところが悩ましい生き物だ。自分がどの程度の人間であるのかを測る定規は、この世界には案外少ない。だからといって気概と精神論を展開するつもりにもならないので、なんとなくは記しておく。
 ぼくの実績――などといえるものはほとんど皆無であろうが――は、せいぜいが1回のイベントで100冊をそれなりに超える量の頒布をしているということと、いちおうの代表作である『君は爆心地』という作品についてはカクヨムという小説投稿サイトでは4000PVほどの閲覧をいただいたということくらいだろか。なお、現在同作品はKindleでの電子書籍販売に際してカクヨムでの公開を停止している状態だが。どちらにせよ、さして世界にとって意味のある数字にはなっていないことは事実だ。

 それ以外の思想信条については、これから幾度となく書いていくのであろうこのnoteで語っていければよいと思う。口だけで自分がどんな人間かを示すには、もうネットの海には同じものが泳ぎすぎている。なので簡潔に自分がどんな人間かを表明することはあきらめた。事実以外におけるぼくの人となりは、ぼく以外の人間が勝手に決めればいい。そう思う。


 というわけで本題に入るわけだが、学術的な根拠や一般的な理解を得られるような文章は書かない、と最初に申し上げておく。

 ぼくがここになにかを記す理由は単なる備忘録に、ほんの少しの解放感を与えたいからに過ぎない。脳みそのバックアップを世界に公開しておこうというだけだ。なので支離滅裂な文章が目の前に展開されることに許しをいただきたい。もう少しざっくばらんな言いかたをすれば、「めちゃくちゃなこと」を言う可能性が高いので注意してほしい。
 仮にも言葉を扱う人間がこんなことを言っていいものかという問題はいつか扱うとして、今日は別のことを話そう。


 物語を描いていくうえで必要となってくる要素として、「時間」と「空間」があげられるだろう。まったく例外がないとはいえないが。舞台として空間が存在しない小説は、お読みの方にもいくつか思いあたるものがあるのではないだろうか。円城塔の『 Φ (ファイ)』などがぼくの考えつく一例である。時間についても同様で、 ウィリアム・フォークナーの『響きと怒り』などは時間という概念を喪失させることで、人物の内的世界を表現している。ぼくが言っているのはあくまでも一般的な意味においてのストーリーについての話で、5W1Hが作品のなかに存在しているような作品のことだ。
 ぼくはここ最近、そういった時間と空間をどのように扱うかということがつまりは「文体」や「読みやすさ」という言葉につながっていく要素なのだろうと、それはそれは当たり前のことについて考えている。

 小説を書くうえで空間の描写というものは誰でもやるものだろう。いわゆる「情景描写」というものだ。小説を書いたことがある人はこれについてのこだわりがあったり、あるいはそれが苦手で極力簡潔におさめたりすることもあるだろう。個人的な話をさせてもらえば、ぼくはこの情景描写を書くことが好きで小説を書き始めたという節がある。ぼくが初めて文章を美しいと感じたのは、小学校の教科書に載っていた星野道夫という写真家が書いたアラスカに関する自然描写だったのだから、当然のことかもしれないが。
 そして時間というものは、書いているうちに自ずから生成されてしまうというということが大方の感覚ではないだろうか。小説のなかで誰かが発言をすれば、その分だけの時間が生成される。「2時間経った」と記述すれば作中でその通りの時間が経過する、というように。物理世界での出来事を書けば、おのずと時間は作られる。というより、物理現象そのものが時間という概念と不可分なものであるのだから、むしろこれは文学的な話題ですらないだろう。ともかくは小説のなかに時間と空間は基本的には存在している。ということは了解してもらえるのではないだろうか。

 けれども、ぼくが小説を書いているさい、モニターに表示されているのは単なる文字列だけだ。最終的にはインクの染みとしてお届けされるその記号群は、絵画的な遠近法もなければ動画にあるような時間を示すシークバーも存在しない。強いていうなればページの残量などを確かめることでしか「時間」を感じることはできないだろう。上記の時間や空間というものは、基本的には文字の意味を理解することで生じるということが分かる。多くの場合、小説の時間というものは視覚的に知覚されるものではなく、意味として生じるものであるのだろう。記号として理解されるのではなく、意味として理解されると言い換えてもいい。このさいは小説における時間と空間が、読者である人間の脳みそを介して発生しているのだということが分かってもらえればいい。繰り返し言うが、これらは至極当然の話だ。
 
 そしてぼくは、そういった「意味越し」での時空間の生成にどうにかしてあらがえないだろうかと考えている。単純な話でいうと、「3日経った」と書かずに3日経たせるということをどうやったらできるだろうかということだ。まあそれは、大変難しいけれど。

 今のはあまりに単純すぎる話だったが、作中で「1時間の会話」を表現するとき、読者にもその一時間すべてを体験してもらうことはできない。1時間分の消費ページは人によるが、100ページ以上を1シークエンスの会話文で書き散らすということもみっともなくて仕方がないように思う。そもそも書くストーリーが限定的になりすぎてしまう。なので意味を媒介として、1時間にふさわしい会話を作家は書いていくわけだ。
 ぼくがタッチしたいのは、その「1時間にふさわしい」という価値についてだ。人はどれだけのことに、どれだけの時間をふさわしいと感じるのか。それが知りたくてたまらない。


 ただ現実においてだって、時間の長さ、密度なんかは場合によって異なると感じるのではないか。楽しいことはあっという間、辛いことはやたらと長く。というふうに。

 ぼくは最近、恋心をいだいている相手と抱き合うことが多い。そうしている間にいまさら気が付いたのだが、ぼくは人と抱き合っているときに意外とその人のことを考えていない。そういうと語弊がありそうなので補足しておくと、決して相手をどうでもいいと思っているわけでもなく、むしろ息遣いや体温を魅力的に思うことだって大いにある。ただそれだけではなく、ぼくは2人がいる空間についてだったり、あるいはそういった状況に至る過去の経緯についてだったり、目の前にある温もりの未来がどうなるのかといったこと、とにかく思考があちらこちらに巡っている。
 宇宙へと旅立っていく思考を地球にとどめるように、ぼくはそこに人がいて、自分が同じように存在していると確かめる。その手段は今のところ会話と愛撫くらいしか確立されていない。なのでぼくは基本的にそれらを駆使して恋心を成層圏から取り戻す。逢瀬はその連続だ。話して撫でて、途方に暮れて宙を舞う、匂いや感触で舞い戻る。
 果たしてこういったシークエンスはぼくにとって、「ふさわしい」時間足りえているのだろうか。無論だ。と答えられるのならば、先ほどまで考えていた小説の時空についても回答が出ていそうなものである。足りえていると思いたいことは確かだけれど、明確にすべきときでもないように思う。

 ともかくとして、物語における空間とは意識が自分の外側にあることを内側へと引き寄せることで発生し、その過程で時間というものが生成されているのであろうという考え事をしていたわけだ。そしてその最中、登場人物たちに認知させる空間の取捨選択をおそらくぼくらは「文体」と呼んでいる。その比重についても同様だろう。

 そして端書として記すと、そういった近景と遠景の行き来をすることによって起こる時間を物語とするなら、近景と遠景を固定して時間を止める芸術をぼくらはイラストや硬くいえば絵画と呼んでいる。そしてぼくが大学生活の間に研究していたアニメーションという分野は、絵画的空間を表示させながら物語的時間を導入するという奇怪さが魅力的だったように思う。さらりと書いてしまったが、ここがもっとも面白い鉱脈なのではないだろうか。だが今後のnote生活のためにも、まだ掘りきるのはよしておこう。


 中途半端になってしまい申し訳ない。ぼくがこの夏に気がついたのは、こうやって空間と人を行き来する思考を繰り返す時間が小説を書くうえで、ぼくがもっとも気にかけたいと思っていることなのだということだ。そこにぼくが知りたいことがある。目指す場所は、おそらくそこだ。それを書きたかったのだ。


 
 などということについて考えていたのも、「エロ漫画は『表情アップ』『引いて全体』『局部アップ』を繰り返すと勝手に出来上がる」 という旨の記述をツイッターで見かけたからなのだが。性行為中とは関係なくとも、このシークエンスに非常に近い意識の推移をぼく自身が持っているということに気が付かされたというのが種の明かしだ。いや実にくだらないのかもしれない。けれども、こうやって自分の言葉にしていくことがきっとぼくにとって大切なことであろうとも思う。なにしろぼくは言葉を使う人間だ。めちゃくちゃなことを書くにせよ、ひとまずはそうなのだから。
 今後とも煮るにも食うにも困ることを言っていく。なので注意されたい。今回だって書き足りてないことがたくさんあるし、以降にも足りないことは増えていくばかりだ。お付き合いいただけるとありがたいが、そうでなくてもしかたがない。とにかくいつか取りあつかう問題もそれなりにあるのだし、それに着手していければいい。

 



 
 
 ところで中盤にはさんだ「惚気話」のようななにかだが、これは仮に本人が読んだ場合、どのように思われるのだろうか。
 それこそ最大の問題な気もしなくもないが、これについてはどれだけnoteへの投稿が続いたとしても、取りあつかうことはないだろう。

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