見出し画像

黄昏時代の予定 子供3人の教育費 人生の工程表を作っていた

人生の工程表
私は、3人目の子が幼稚園に上がる時、大手企業を早期退職し、新しい会社の立ち上げに関わった。
会社は上手く立ち上がり、そこで働くことになった。
同時に教育条件のいい文教圏に引っ越をして、家も購入した。
人生の勝負に出たと言えば聞こえはいいが、背水の陣だった。
当然将来に不安を覚えた。

その不安を抑える為に、人生の工程表(ライフプラン)をエクセルで作り、随時パラメータを変更し更新しを続けていた。
不思議なもので工程表を作ると、それに沿って人生が動いていく。
仕事で工場建設とか大きなプラントで、年間の長期工程から3ヶ月、1週間工程などを作成して現場管理していた経験が活かされていたと今は思う。

そのライフプランも2021年、末っ子が大学を卒業し、私が会社を辞めて一応の句読点となった。
参考に教育関係の工程(子育てプラン)はこのように終着した。考察もしてみた。

教育関係工程と考察

人生は続く
それでも生きている限り人生は続く。これから検討する工程はおそらくラスト工程だと思う。
最終工程表、工事現場みたいだけど、不確定(仕事、ローン、子供、親など)な要素は消えていった。つまり工事完了近い。後は検収(墓に入る)だけだ。

さてまずは期間だ。これが不確定だと目処が立たない。
なんとか65歳まで生き抜いたが、余命はどれくらいあるのだろう。
ここで国の一次データを見る。
----65歳からの平均余命=18.86歳 
残すところ19年。つまり84歳までの工程となる。

遺伝で決まる寿命
父親の死は77歳 母親は89歳。
父方はあまり長生きの家系ではない。一方、母方は長生きの人間が多い。
両家の血筋、遺伝的特質として脳梗塞、癌、糖尿病はほとんどいないようだ。
だが、親父の家系は心臓疾患が多い。俺も弟も既に心筋梗塞を起こし、現在ステントを入れている。
痴呆はいない。口が達者な爺さん婆さんだった。

元気に生きられる年月
三浦雄一郎さんのような化け物の血筋ではないので、おそらくまともに動けるのは、今のトレーニングを落とさず続けても、後10年程度だと推測する。
おそらく親父の死んだ77歳までは普通に遊べるだろう。

90歳で富士登山

仕事はどうする
定年してわかるけど、結構自由に仕事していた私でも、宮仕えが長いと人に使われるのが楽だと思ってしまう。
大義名分として、食うために、家族を養うために、取りあえず言われた仕事をする。余計なことは考えない。本当に奴隷根性が染みついている。

奴隷解放
仕事を辞めて、会社も解散した。ついに開放された。
いざそうなってみると、大平原に離された小犬みたいだった。
何時までも、飼い主の周りをうろうろしている。
しかし、私は会社を離れたとたん死にかけた。心臓も一瞬だが止まった。
だけど戻ってきた。死の先には何もなかった。
この荒療治のおかげで奴隷根性は吹っ切れた。・・と思う。

「人間、生きてて、なんぼだ」
来年が来るかどうかもこの歳だと分からない。これが真理だ。
寝るとき時々思う、「このまま朝になっても目が覚めないのでは」と、実際、私の親父はそうだった。

何時までも不安
悩みや惑いをドンドンと作り出して、不安を煽る現代。
セカンドライフ、断捨離、終活、年金、戦争、差別、政治、投資、地震、気候変動、コロナ、オレオレ詐欺、刹那的な贅沢三昧、結局振り回されている。
一度死にかけていなければ、私も多分迷走したと思う。

人生の黄昏時
私の周りには個性のある諸先輩方が多かった。
その中で、よく気にかけてくれた3つ上の先輩は、プログラマーと株をやって、それなりに儲けていたが、66歳で突然亡くなった。
あっと言う間だった。
私のテレキャスタータイプのギターとアンプを貸していたが、そのままとなった。代わりにギブソンES335を譲って欲しかった。

ギブソンES335

彼の口癖
「お前さぁ、そろそろバンドやろうぜ、俺たちはブルース・ブラザーズだ」
「バンドは俺やってるけど、いいよ」と言ったその矢先だった。
ブルースバンドを組みたかった。でも時間は戻って来ない。

ど偉い社長
あの精力的な常さん(私を新会社の設立に巻き込んだ社長)の幕引きも強烈だった。日本、世界中を飛び回り、私を引きずり回してジェットコースターに乗っているような仕事をやっていた。
引退後、自宅の周り2キロ範囲で生きている。散歩は健康にいいけどね。

それにしても会社の終焉はなんとも淋しいものだ。燃え尽きたような感じだった。
私は死にかけて入院中で、その最後にはつきあえなかったが、会社が無くなれば、一気に取り巻きも消える。
1年も経てば、長年つき合いのあるユーザーも、私の顔も名前も思い出しもしないだろう。
そんなもんだとは思っていた。

だけど、私にとって組織や会社の人間関係はどうでもいい。
本当の友人だけが残っていればいい。

それでも最後は家族しか残らないだろう。
親父が亡くなって15年目、介護の末に亡くなったお袋。周りには夜勤の医者と緩和ケアの看護師しかいない。後は私と家族で看取とった。
明け方、霊柩車で病院を出る時、警備の年配の爺さんが、最敬礼で見送ってくれた。その姿に胸を打たれた。

未来に愛はあるのか
老人とっては、1年はひと眠りだ。
でも時間は気持ちが大きく関係する。
生きている実感さえあれば、時間は延びる。
今更だけど、出血多量で倒れるまで、やってみよう。
昭和が青春だった私はそう思ったりする。

78年型ヤマハYZ250市販モトクロスバイク  1980年多摩川

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?