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朝ドラをもっと楽しもう!天才、古関裕而を探して。第二回【音学note】

こんにちは、ライターの青竹です。朝ドラ「エール」面白いですね〜!
まずは景気付けに古関裕而のこの曲を聴いてからスタートしましょう。

僕たちのYouTubeチャンネル「コロンスタジオ」の阪神ファンピアニスト「響子」が弾く六甲おろしでした。フランスに長く留学していたからかお洒落な雰囲気も漂わせつつ(?)、素敵な演奏でした。
さて記事の方は裕而と最愛の妻との出会い、そしてコンクール受賞後の裕而の華々しい活躍を書いていきます。どんなロマンスやドラマが待っているのでしょうか。

妻、内山金子(きんこ)との出会い。

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(妻となる内山金子。画像出典:「エール」のまち!豊橋)

後に裕而の妻となる金子は、長男と6人姉妹の長女として愛知県豊橋市で生まれました。小さいころから音楽と文學を愛し、将来はオペラ歌手を目指していたそうです(でも結構お転婆だったらしい…)。1928年には豊橋高等女学校を卒業し、「女人芸術」という女性の文芸・総合雑誌に参加します。

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(女人芸術創刊号。画像出典:Wikipedia)

そんな金子が初めて裕而の存在を知るのは、1930年(昭和5年)1月の新聞に載った裕而のコンクール入賞の記事でした。福島の無名の青年がコンクールに入賞したというニュースに金子は感銘を受けます。また、その時の受賞作品が『竹取物語』というのも、幼少期、竹取物語のかぐや姫を演じた事のある金子は興味を惹かれたようです。新聞を読んだ金子は早速裕而にファンレターを送ります(はやい!)。
そこから文通と共に二人の遠距離恋愛がスタートするのですが、これが大変にお熱い。アツアツ。
自分たちを、ドイツロマン派を代表する大作曲家であり、その恋愛エピソードが有名なシューマン夫妻になぞらえた手紙が残っています。

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(古関裕而が内山金子に宛てた手紙。1930年4月25日付。左上には朱のハートマーク、内山金子の名前の横に「クララ・シューマン」、古関裕而の横に「ロバート・シュウマン」の文字が書いてあるのがわかる。古関正裕氏蔵。画像出典:福島民友新聞)

またこの文通期間に金子の詩「きみ恋し」に裕而が曲をつけたり、オーケストラ13曲、歌謡曲10曲、室内楽3曲の計26曲を「そのすべてを『私のクララ』であるあなたに捧げます」と手紙の中に書いています。手紙のやり取りだけでこんなにもお互いを愛することが出来たなんて、本当に素敵です。すぐにどこでも繋がれる現代の私たちも見習わないといけませんね。
実はこの手紙のやり取りの中で、裕而は崇拝していた山田耕筰についてこんなことを言っています。

「彼の芸術は立派だかも、知らないが、あの、腐つた品性を、読んだ時、彼の作品にも、その悪性がしみ込んでいるかと思うと」
「自分は、芸術に於て、山田耕作氏以上にならう、否、断然山田耕作氏を抜かうと思つています」
(引用:文春オンラインhttps://bunshun.jp/articles/-/36934

それまで山田耕作の事をずいぶん慕っていた裕而でしたが、どうやら山田耕作の女性問題のいざこざが報道され、彼への人間としての尊敬が薄れてしまったようです。誠実な男ですね。

結婚、そしてコロムビアの専属作曲家に。

裕而と金子の愛があふれた遠距離恋愛は1930年6月に終止符が打たれることとなります。金子は裕而のいる福島へ行き、なんとめでたく結婚してしまうのです。文通期間3か月あまり!超スピード結婚ですね。この時裕而は20歳、金子は18歳。今では考えられないような出来事です。親御さんの心情を考えると、なかなか恐ろしいですね。(笑)
二人のより詳しい手紙のやりとりなどはこの本に書いてありますので、興味のある方は是非読んでみてください!著者は古関裕而の長男の古関正裕氏です。

結婚し、いよいよ作曲家として夫として、しっかり稼いでいかなければならなかった裕而ですが、この年の9月、山田耕筰の推薦もありコロムビア(現日本コロムビア)専属の作曲家として活動が出来ることとなり、夫婦で上京します。

このコロムビア入社、もちろん音楽的な側面もありますが、実家が経済破綻していた為に一族を養わなければいけないという面もあった様です。このお金がないという現実は、次第に裕而の音楽生活にも大きく影響を与えて行きます。音楽の勉強の為行きたかったヨーロッパも結局お金がなくて行く事が出来ませんでした。
そして経済面で影響を受けたのは自分たちの生活だけではありませんでした。お金を稼がなくてはいけない、それはクラシック以外の曲を書いていかなくてはいけないということ。しかも、沢山。ストラヴィンスキーらを敬愛し、ここまでクラシックを愛してきた裕而にとって、これはつらい出来事だったと想像できます。

裕而が作ったクラシック作品として1928年に作曲された交響楽短詩《大地の反逆》があります。これはまだ金子と出会う前、1923年の関東大震災を経験した裕而が(当時まだ福島)その体験をもとに作り上げた作品です。裕而の直筆書によれば

「昭和5年(*1930年)、小松平五郎主宰の国民交響楽団秋季演奏会でこの交響楽短詩が演奏さる。これが楽壇デビューである。10月に日本コロムビアと契約。同社の専属作曲家となる」

とあり、裕而のクラシック作曲家としての能力が優れていたことが分かります。
1935年(昭和10年)には新民謡調の『船頭可愛や』(作詞:高橋掬太郎、歌:音丸)が大ヒット。人気作曲家の仲間入りを果たします。この歌は日本で初めて世界的なオペラ歌手として活躍していた三浦環(1844-1946)もレコードに吹き込みました。

(実際に三浦環が歌っている貴重な録音!)


戦中、戦後。生み出された名作たち。

戦時中、会社から裕而に戦時歌謡の作曲依頼が来るようになります。

「『紺碧の空』を手がけた男だから、勢いの上がる曲は得意だろうというのである。私は仕事なのだとわり切って引き受け、時勢の流れにまかせていた」(引用:古関裕而著「鐘よ鳴り響け」より)

1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発。この年に発表された『露営の歌』(作詞:薮内喜一郎)は、レコードのB面だったにも関わらず、A面の作品より人気が出て異例の60万枚以上の売り上げを記録しました。
1938年(昭和13年)には従軍音楽部隊として上海、南京を訪問。
1940年(昭和14年)には映画『暁に祈る』の主題歌として『暁に祈る』(作詞:野村俊夫)を作曲し、大ヒットします。
これらの作品は哀愁を帯びた切ないものが多く、それが戦争で傷ついた人々の心に寄り添い、支持されました。しかし、裕而は自分の作品で戦地に送られ戦死した人々へずっと自責の念を持っていたそうで、

(「予科練の歌」について)
「あの歌で予科練を志望した若者も多かっただろうが、その人たちが戦争で死んでしまったことを思うと、とても辛い」

と語っています。

戦後、裕而は暗い雰囲気が漂う日本を元気にしようという思いで作曲をします。日本全土に向けた鎮魂歌『長崎の鐘』(1949年)や、戦災孤児の救済をテーマにしたラジオドラマの主題歌『とんがり帽子』(1947年)、1946年には東京オリンピックの会場に『オリンピック・マーチ』が鳴り響きます。

1948年には今現在でも夏の風物詩となっている、夏の全国甲子園のための大会歌『栄冠は君に輝く』が作曲されます。

今の私たちの心にも元気が湧いてくる曲たちですね。裕而の曲は格調高く、清潔感があり人々の心をつかみました。

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(1955年の古関裕而。画像引用:Wikipedia)

他にもかねてから親交のあった劇作家の菊田一夫とコンビを組み、1961年に舞台劇『放浪記』を初演。主演を森光子が務めたこの舞台は、彼女が主演で上演2000回を達成しました(森光子さんがでんぐり返しをするシーンが有名ですね。)。

晩年、死後。

1972年(昭和47年)からは『オールスター家族対抗歌合戦』の審査員を務めたりと、お茶の間にも人気者だった裕而。
1977年(昭和52年)には『栄光は君に輝く』制定30周年を記念して、甲子園に招かれた裕而。そこで母校である福島商業高校が甲子園初勝利を挙げ、自らが作曲した校歌を聴くことが出来ました。

その後1989年(平成元年)、80歳の誕生日を迎えた古関裕而はその一週間後に息を引き取ります。死因は脳梗塞でした。

2009年には生誕100周年を記念して、JR福島駅の発車メロディーに作品が採用されています。(在来線に『高原列車は行く』、新幹線に『栄冠は君に輝く』)

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(古関裕而。画像引用:日本コロムビアHP)

まとめ

二回に渡っての古関裕而特集、いかがだったでしょうか。今回「エール」を機に詳しく勉強させて頂きましたが、その誠実な性格と、愛にあふれた音楽にとても惹かれました。「エール」ではこれからどんなドラマが描かれるのでしょうか…?とても楽しみですね!
それでは皆様、また次の記事でお会いしましょう。

文:青竹(コロンスタジオライター Twitter:BWV_1080)

参考文献
古関裕而:Wikipedia
ふくしま地域ポータルサイト「ももりんく」
福島民友新聞「みんゆうNet」
川俣町HPより「川俣町と古関裕而」
日本コロムビア
笹川スポーツ財団
古関裕而「うた物語」minyu-net
『鐘よ鳴り響け』古関裕而著


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