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奔女会がそこにあったことの記録 〜国内開催4年間の終了に寄せて〜


奔女会とは

主催者のハム氏が、以前別の主催者によるイベント「メンヘラビッチバー」に共感して始めたイベントだ。

「メンヘラビッチバー」は、メンヘラやビッチと言われて周りに迷惑をかけたり距離を取られがちな女性が、許された環境で好きに働ける、そんな場所を目指して開催されていたバーイベントになる。

「奔女会」は「メンヘラビッチバー」にヒントを得て2019年に始まり、主催者の自宅、コロナ禍では近所の公園開催などを経て、4年間続いた。主催者の事情により国内での開催が一旦終了したのが先日のことだ。

奔女会ホームページの説明を引用すると、会の主旨は以下の通り。

奔女会とは、(メンヘラ)ビッチのための当事者グループです。奔放という言葉に当事者性を持つ(かもしれない)人々が、道徳や倫理で裁かれない安全な場で、自身の奔放な人生を語り、祝福する場を創造しています。

https://honpo.weebly.com/2286822899202501239212399.html

当事者グループと言っても、互いをカウンセラーとして扱うようなことは禁止されている。また、女性の当事者の参加に限っている。

そして、メンヘラやビッチ、社会的マイノリティを糾弾する方の参加は断ること、会の最中や事後の連絡先交換をしないこと、を掲げている。

当事者が集まるにもかかわらず、連絡先交換を禁止されることや、発言や行動に制限があるなど、厳しいと言えばそうなのだが、紆余曲折あって洗練されてきたルールでもある。

奔放な人生とは

自由な生き様を表した言葉になる。他人に迷惑をかけてしまうライフスタイル、人間関係の軋轢の中でのもがき、メンタルの病み、めちゃくちゃ、そういったあり様のことだと私は理解している。

連帯と共感のクソみたいな難しさ、パッと集まってパッと散るしかない

世の中には自分の立場と逆の立場の人間があっさり堂々と存在する。共感しようとしても到底受け入れられないライフスタイルも性癖もある。浮気したひとがいれば浮気されたひとが存在する。

奔女会では連帯を持続しない。持続しようとする時期、人もいたが結局のところ難しかったというのが正しい。
聞きたくない話の時は離席して別室で寝ていることも認められる。自分は話さずに人の話を聞いているだけも認められる。そもそも本名を名乗らずに「呼ばれたい名前」を名乗る。
その会であった話を次回に持ち越さない、会で聞いたことを外に持ち出さないというルールもある。

奔女会ではもちろん、ただ取り留めのないガールズトークを繰り広げるわけではない。
居合わせたひとたちが順に「呼ばれたい名前」「今日参加した理由」を述べ、時にはその自己紹介をきっかけに他の人も話し始め、その場限りの共感、情報共有をし、そして最後に参加者全員でケーキを食べる。他人の経験や意見をジャッジせず、否定せず、競い合わず、聞く。
途中参加、退出ももちろん認められている。ケーキ以外の食事やお酒が供されるときもある。

特殊な場に浮かび上がる自由とそもそもの社会の息苦しさ

奔放な女であることは本当に生きにくい。
女の人生を、欲望を、お手軽なポルノとして消費してしゃぶり尽くす需要が日本社会には溢れている。正しく着実で適切な年齢での法律婚と、計画的な出産、強く優しい聖母としての子育ての圧力も強い。

行動の奔放さ、そもそも女が自由に意思を持って生活して生きることさえ、日本社会では眉を顰められる。

さらに日常は戦場であり、その中では色々喋っちゃいけないことがある。
たとえばタイプじゃないワンチャン狙い男の前では迂闊に昨日のセックスの話はできない。たとえ実際にヤる気が全くなくても、女から誘ったと解釈されて場合によっては襲われて、話も人間関係も自分のメンタルもめんどくさくなる。友達の夫を好きになっちゃっても当の友達のスタンスがわからなければそうそう打ち明けられない。セフレが6人いて彼氏が3人いる状況で寂しくてうっかり死にたくなっても、まず状況の説明だけで心配してくれてた親友がブチギレだすこともある。(もちろんこれは全て架空の例え話だ)

かといって全部を胸にしまっておくには複雑すぎて叫び出したくなることもある。
そういう自分のための一時的な場所(主催者によると「ビッチの故郷」)として、奔女会は機能している。

生き延びたお祝いに今日はケーキを食べよう

奔女会では必ずケーキを食べる。
ちょっと良いケーキ屋のホールケーキに、会によって趣向を凝らしたメッセージを入れてもらう。主催者のハム氏が奔女会でケーキを食べることにかける情熱はかなりのものだ。
地方開催や主催者のスケジュールが鬼のように厳しいとき、人数が少ないときでも必ずケーキが用意される。
とにかく生き延びてきた自分自身を祝うこと、特別な日でなくても個々の生き延びたことそのものを尊いとすること。その思いが奔女会の空間にはある。

おわりに

自分自身が生き続けてきたことを自分自身で祝い、ねぎらう。実は日本社会で生きている女にはあまりない習慣だ。
尽くし尽くされておかしくなってしまったり、ハラスメントの渦の中で自分やパートナーを必死に離すまいともがいたり、まあ人生には色んなことがある。
もし世の中が悪い人と良い人に分断されたら悪い人側になってしまうだろうこと、自身でコントロールできない自分とその人生、そういう中でもなんとか生き続けること。そのための一助に、奔女会という場所があったことを記録しておきたいと思う。

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