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国語の試験は出題者の国語力を測るテストである

はじめに

みなさんは学生のころ、国語という科目に死ぬほどモヤモヤとした疑問を感じたことはないでしょうか?

今日はみんなが感じるそのモヤモヤを言語化してみようと思います


なんで国語って名前の科目で国語ができない国民がいるんだ?なんかおかしくない?

さて、まずはみんながモヤモヤを感じる部分その一つ目について考えてみる
なんで国語ができる人とできない人がいるのだろう?

国語ができる側の人はこの疑問を感じたことがないかもしれません

なぜなら国語が出来ると、より良い学校に進学できたり数多くの実利的なメリットがあります

わざわざ自分の優位性を脅かすことを考える必要性はありません

しかし、この記事を読んでいるならせっかくなので考えてみてほしい

単純に疑問に思わないでしょうか?


国民なのに「国語」という名前がついている言語が出来ないと言っているのって、そもそもおかしくねぇか?と


おそらく、多くの人はまだピンと来ていないと思われます

もう少しかみ砕いて言いいましょう


まずは「国語」という科目の名前について考えてもらいたいです

そもそも「国語」とはなんでしょうか?

――そんなものは簡単すぎて、バカにするな!と言われそうだが、あえて言わせてもらいましょう

「国語」とは、文字のまま読めば、「国」の言「語」であると読み取れます

――そのまんま

じゃあ、「国」の言「語」とは何だろうか?

普通に考えれば、日本語でしょう

――それがどうした!話がくどいぞ!と言われそうだが、まだ続きます

じゃあ、日本語は誰が使っているのだろうか?

日本国民ですね

つまり僕らです

だから、「国語」というのは「国」民の言「語」であるとも言えます

――うんうん、そんな当たり前の事言って何言っちゃってんの?早く結論を言え!と、もうそろそろ読者の皆さんがイラついてきている頃だと思うので結論を言います

要するに、国民が使う言語こそが「国語」であると定義されるため、国民であれば、全員が「国語」ができるはずなのである

逆に言えば、

「国語」ができないやつというのは、国民ではないのである

と言えます


――さて、では、ここで一つの命題を出しましょう

わたくしダイキっちは、小中高大を通して学校では国語ができないキャラでありました

つまり、国語ができないダイキっちは、国民ではないのでしょうか?


いえ、わたくしは立派な日本国民であります

しっかり国籍があります

疑いようもなく国民です


ということはつまり、”国語ができない”という部分がどうやらおかしそうだということが分かります


そうです

国語ができない、というのはそもそもおかしな話なのです

なので、国民の皆さんが「国語」という試験を受けたら、全員がもれなく100点満点を取れなければならないのです

逆に言うと、その試験で、全員が100点を取れなかった場合は、その出た問題文が、「国語」で書かれていなかったということを意味するのです。


国語の試験を出題する側も国民であったならば、もはや、100点以外の数字が出ることがそもそもおかしいのです

100点以外の数字が出た場合は、どこかに非国民が混ざっているのかもしれません
この理屈でいけばそうとしか説明ができません


国語の試験は何を測定しているのか?

さて、でも、現実世界では、平然と国語の試験が行われており、受験者毎に点数がつきます

これは何なのでしょうか?


世間一般的には、コレを受験者の読解力と説明されます


でも、読解力と聞いて、「読解力をテストするってなんだよwww」って思ったことはありませんか

冷静に考えて、そもそも読解力をテストするってなんでなん!?と思いませんか?
読解力の能力が高いことは何を意味するのでしょうか
社会は、他人に以心伝心能力を求めているとでもいうのでしょうか?


『いや、伝えたいことがあるなら、伝える側が言葉にして伝えろよ!他力本願にもほどがねぇか!?』というツッコミがあってもおかしくなさそうですが、誰もこのことに対してツッコむ気配はありません。

それどころか、読解力が試されるとされる現状の「国語」が出来る人間ほど、自責思考にかぶれている印象があります

だって、考えてみてください

読解力って結局のところ聞き手の能力なはずです

つまり、読解力任せの国語力ってそれってめっちゃ他人任せじゃないですか???

本来の自責思考の考え方からすれば、国語は伝える側に全て責任があるはずです。

なので、自責思考の発想からすれば、国語が伝わらなかったのは、書き手、話し手の能力不足であるので、作者君はもっと国語力を伸ばしましょう!

となるはずです。

なのにそれがどうして、、、、、、、

国語が伝わらなかったのは読み手の読解力不足である!
これは問題だ!
学校教育で読み手の読解力を鍛えよう!

という結論になるのかが全く理解ができません


特に、自責的な国語出題者が、自分の国語の出題能力を差し置いて、他人に読解力を求める姿は、まさしく滑稽、皮肉としか言いようがないなと思ったりします。


例えば、センター試験です(今は共通テストでしょうか)

センター試験では、国語の問題を解かされると思います

センター試験の国語の平均点は大体どの年度も60点前後です

過去30年間の国語のセンター試験の得点率(平均点)の推移を見てみましょう

この得点の意味するところは、世間一般では受験生の読解力であると説明されます

しかし、それは大きな嘘です

さっきも説明しましたが、国語という科目は国民が100点を取れなければならない言語です

しかし、100点以外の数字が出るということは何かがおかしいです

センター試験を受けるのは、ほとんどが国民であるので、非国民がまぎれていることによる影響は無視して良いでしょう

それではなぜこんな点数になるのでしょうか?
それは、出題者の国語力が6割レベルだからであるということで説明ができます。

つまり、センター試験は毎年、国語力が6割レベルの未熟な国語の文章を出題しているせいで、毎年の平均点が6割になっているのです。

つまり、この点数の意味するところは、センター試験の出題者の国語力の数値化なのです

かみ砕いて説明すれば、数十万人の受験生はセンター試験で評価されているのではなく、センター試験の出題者の国語力を評価してあげているということなのです


さて、改めてグラフを見ましょう
センター試験を実施している独立行政法人大学入試センターの国語力は、ここ30年間で上がっているどこか、落ちてきています

独立行政法人大学入試センターの国語力が年々下がってきており、非常に嘆かわしい事態であることが読み取れます。


このように国語の試験とは実は試験の出題者側を受験生が評価するという試験だったのです

国語という言葉の意味から考えれば、こう考えざるを得ません

逆になぜ今まで読解力のテストだと解釈され続けているのか、理解に苦しみます


国語の試験を読解力テストだとする元凶になったのは、おそらく憲法9条のせい

さて、このような国語の歪みが生まれてしまったのには何かわけがあろうと思います

そうでなければ、ひたすらおかしなことをやっているテストだからです

普通に考えて、読解力ってそもそも必要な能力でしょうか?

これは読み手側の能力です。
伝えられる側の能力です。

当然ですが、言語には伝える側の能力もあります。

そして、伝える側の能力と、伝えられる側の能力とを比べると、どう考えても重要なのは伝える側の能力のはずです

それなのにも関わらず、学校教育で優先して教えているのは読解力です

これはなぜでしょう


答えは、憲法9条がその元凶であろうと考えられます

まずは憲法9条の原文を読みましょう。こちらです

第九 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 国の交戦権は、これを認めない。

普通に読んでみましょう。
これを読めば、日本は軍隊を持たないんだなということが分かります

さて、日本は軍隊を持っていないでしょうか?

答えはゴリゴリ保有しています

――いや持ってるんかい!

では、なぜ持てているのかというと、憲法を解釈しているからです

日本という国は解釈という方法を憲法に適用してしまったのです

解釈ってなんやねん、、、と思うかもしれません
その感覚はいたって普通です
逆にこの解釈に違和感を感じないのはうっかりさんです

でも、解釈の何が悪いのかな?と思ってしまううっかりさんもいるかもしれないので、解釈の何が悪いかについて、念のため補足説明しておきましょう

解釈の何がいけないかというと、書いている文章を書いている通りに読まないことが問題です

行間を読み始めたらなんでもかんでも言えてしまうということです

俗にいう屁理屈です

そして、憲法9条では実際にその屁理屈で押し通しています

憲法9条の解釈の説明はこうです

条文では自衛権は否定されていない。つまり自衛するための手段はセーフ

どゆこと?
自衛権なんて一言も条文に書いてなかったけど……

これが屁理屈と言わずになんというのでしょうか


これは高度に政治的なテーマであり、国家として軍隊を持たないというオプションは絶対にありえないので、最終的にはこうなるのは必然なんだと思いますが、これは司法の敗北だなと感じます

色々な事件の裁判で日本の司法はろくに機能していないことはわかると思いますが、それは法解釈という屁理屈手段を司法が取れるからなのです

憲法9条のせいで、司法は法解釈という禁じ手オプションを使えるようになりました
この禁じ手オプションをフル活用するために必要な能力は屁理屈をこねくり回す能力です
つまり屁理屈をこねくり回す能力が裁判官に最も求められる能力となったのです

そして、その屁理屈をこねくり回す能力の選抜方法として用いられたのが、国語という科目の読解力テストなのです

繋がったでしょうか?


国語という科目は、法解釈なんてやっている日本の歪んだ司法を維持するために使われているとんでもない教科だったのです。

つまり国語が出来るというのはなんにも誇れません

「私は国語ができます!」と言うのは「私は屁理屈をこねくり回せます!」と声を大にして言っているようなものだからです。


まあ、よく考えてみれば合点がいきます

司法試験は文系のトップ、つまり、国語の点数が最も高かった学力層の人間が受けに行きます

その中でも最も優秀な人間(≒国語が日本で最も出来る人間)が最高裁判官になりますもんねぇ

政治にとって都合の良いように法解釈してくれる屁理屈こねくりマンを選抜する手段が国語という科目の正体なのです


普通に生きていたら、国語で点数が取れないのは当たり前なのです

逆に、国語で点数を取れるということは、日本語が日本語通りに読めなくなってしまうことかもしれません

だって、現に、日本で最も国語の点数が取れる人たちである最高裁判官の皆さんは、憲法9条の文章を丸っきり逆の意味で捉えています

普通に読んだら180度別の意味には絶対になるはずがないので、やはり国語という科目で点数を取れるということは全く持って自慢できることではないのだということが分かります。

国語を極めると日本語に不自由する

なんという皮肉


さてさて、もうお腹一杯かもしれないけど、後もう一個だけいいかな?


古文と漢文は流石に国語を名乗っちゃだめだろ

もう疲れたかもしれないけど聞いてください

国語という科目はひたすらおかしな科目でしたが、一番コレがおかしいだろ!ヤバすぎ!と思うのが、古文や漢文をしれっと国語に組み込んでいるところです


いや、普通に考えましょう

古文、お前いつから「国語」になったん?

漢文、お前いつから「国語」になったん?


国語というのは国の言語だったはずです

古文、国の言語、、、、、、、かぁ???

古文、国民の誰がしゃべってんの?書いてるの?

そんな普段使いで、○○で候とかいう人、いないですよね

つまり、古文は、国語ではないはずです


漢文に至っては、説明するまでもないでしょう

漢字を使っているくらいでしょうが、文字を使っているだけで国語認定が出来てしまうのならば、アルファベットを使っていることによる英語だって国語に認定してしまえるはずです。

しかし、英語は英語で独立していますよね
その感覚はいたって普通だと思いますし、漢文に関しても中国語やん、国語じゃねえよ、で済む話だと思います

しかし、なぜか漢文は、国語で出題されます


これはやばすぎる話だと思います


百歩譲って古文を国語のカテゴリに入れることを認めても、漢文に関しては絶対に認められません
だって、国語と呼ぶにはあまりにも不適切だからです


つまり、国語ではない漢文を国語という科目で出題した時点で、出題者が一番国語ができないやつだということが露呈するのです

そんな科目受ける価値なんてありませんよね

非常にヤバいことをしているのが国語という科目の実態なのです


だから、国語嫌いな人が国語が嫌いになるのは当たり前すぎる感覚なのです

というか普通の感性を持っていたら国語は嫌いになって当然です
ものごとの本質をとらえられる人間だからこそ国語が嫌いになれるのです

逆に、国語が好きになれるというのは国家のプロパガンダに洗脳されているか、権力側で出世する才能を持っています

洗脳教育に浸かっている人がほぼ全てだと思いますが、権力側で出世するタイプの人間は単純にちょっとうらやましいです(自分も国家からの寵愛を受けたかった……)


なお、ここまで古文・漢文をこき下ろしましたが、個人的には古文は国語の科目の中で存続、漢文は国語や英語と同列で漢文という科目を作って存続するのがいいと思っています
もしくは社会の科目の中で出すかです

理由は、まずは漢文はどう考えても外国語なので、国語という名前を使うのは適切ではない
ただし、出題を取り消す必要まではないと思うので、独立した科目名で出せば問題ない
全てが解決

古墳の方ですが、こちらも日本のルーツとなる言語なので、出題取りやめの方がよろしくないと個人的には思います
そして、古文を国語の科目のまま入れておいていいというのも、「国語」というのを、そもそも大日本帝”国”言”語”と捉えれば全てが解決します。

まあ大日本帝”国”言”語”の略が国語だと捉えると、漢文も確かに国語じゃんと納得は出来てしまうのですが、、、
流石に敗戦から時間が経ちすぎてしまいました

なので、漢文はちょっと別枠で用意してもらう形が一番しっくりくるのかなと思います

まあ一番しっくりくるのは、社会の科目で古文・漢文の問題を出すというとところかなと思います

少なくとも社会のカテゴリには、古文・漢文は絶対に入れられますし、国語の科目の重要度としても、社会科目に入れていた方が粒度が揃う気がするのです


おわりに

夢中で書いていると6000字になりました。

ちなみに元々、この記事は8000字の下書きがあったんですが(面白くないから消した)、いったん消して、そこから6000字を書き直しているので、計1万4千字は書いてます

死ぬほど書いてますね

僕は間違いなく国語出来る人だと思っています

そうじゃなくちゃ、こんなに文章書けないでしょ


国語に関するテーマの記事だったので、最後にこの記事全体の理解度確認問題を出そうと思います

僕の言いたかったことが伝わっているか問題を解いてみていってください



問題

設問1: (正しい選択肢:20点、間違い:0点)

現在出題中の問題であなたが選んだ選択肢の得点は誰の国語力を評価しているか?

A. あなたの読解力
B. ダイキっちの文章力


設問2: (正しい選択肢:20点、間違い:0点)

問題を解いていったら100点にならなかった。なぜ?

A. ダイキっちが非国民だから
B. ダイキっちの出題の方法が悪いから
C. 問題を解いているあなたの頭が悪いから


設問3: (正しい選択肢:20点、間違い:0点)

以下は過去30年間の国語のセンター試験の得点率(平均点)の推移である。この得点の推移が示すことは何か?

A. 独立行政法人大学入試センターの国語力が年々下がってきている
B. 受験生の国語力が年々低下している


設問4: (正しい選択肢:20点、間違い:0点)

一般的な国語の試験は自分自身の言葉を伝える能力ではなく作者の意図を読み取る能力である読解力を評価するようになったが、それはなぜか?

A. 憲法9条の法解釈をきっかけに、屁理屈をこねくり回して条文を政治の意図通りに読み替えられる裁判官を選抜する必要があったため
B. 昨今の学生の国語の読解力の低下を嘆いた老人の老婆心
C. 昨今の学生には文章力を期待できないと出題者が驕り昂っているため


設問5: (正しい選択肢:20点、間違い:0点)

ダイキっち的には漢文は?

A. 即刻廃止!
B. 現状維持
C. 漢文という科目を作って国語の科目とは分離する



答え


設問1: B. ダイキっちの文章力

Aを選んだ人はまだ洗脳されている。目覚めよう


設問2: B. ダイキっちの出題の方法が悪いから


設問3: A. 独立行政法人大学入試センターの国語力が年々下がってきている


設問4: A. 憲法9条の法解釈をきっかけに、屁理屈をこねくり回して条文を政治の意図通りに読み替えられる裁判官を選抜する必要があったため

BCを選んだ人は読解力はある
なぜならダイキっちの頭の中で仮説があったので読解力テストであれば正解である


設問5: C. 漢文という科目を作って国語の科目とは分離する

地味にAを選んだ奴は俺の意図を読み取れているので、読解力テストであれば正解である
漢文廃止もありだと思っているからだ
後だしなどいくらでもある

Bは明らかに間違い



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