昭和中期の夏の空(火の星 火の街 1971-2018 序ー2)

今から3回前の火星大接近の起きた、昭和46年、夏。
この年の大きな出来事でいえば、日本政府に環境庁ができたこと。前の年の秋に国会で公害関係の法律が一気に審議され(公害国会と言われました)、その担当官庁としてできたわけです。
https://www.erca.go.jp/yobou/taiki/rekishi/03_06.html

が、体制を作ったからといって、空気や、あるいは川や海が急に元の状態へ戻っていく訳はなく、せっかくの火星観察の好機も、特に都市部では、鮮明に見るのとができたのか疑わしいです。
たとえば光化学スモッグ、たとえば日照権、そういった、空が塞がれ濁った日々だったと聞いております。
首都圏を遠く離れて、今わたしが住む四日市でも、理由は別ですが、空に濁りがありました。
その頃、すでに、四日市は、石油コンビナートがありました。アラビアから運び込んだ原油からガソリンや灯油、最後には化学調味料まで作り出す、変幻自在な工場群……化学のこと、よくよく勉強しないと魔法にすら見えてしまうほどの巧みな工場たちが、町の東南あたり海岸沿いで、せっせと動いていたのです。

出てくる製品の有用さや作り方の巧みさの一方、濃く黒ずんだものたちも、工場から流れ出ていました。
処理する石油の量がすさまじいのと、廃棄しないといけないものが多かったこと、さらに、……廃棄するものを適切に処理する方法がないものと、ハナから諦めていたこと、
そんな理由が重なって、いろんな物質が煙突からも排水からも出す。あるものは煤の姿で、あるものは臭いだけが強烈に自己主張しながら。
その結果、人にはぜんそく症状が起き、また海では「異臭のする魚」が獲れる、そんな害を受ける日々が続いていました。

中でも健康への害つまりぜんそく症状は生死に関わる深刻さで、社会問題となっていました。

四日市ぜんそく、社会科の教科書には太文字で書かれているあの事件の裁判が、町の裁判所(津地方裁判所四日市支部)で審理されている最中でした。

このシリーズでは、その時期に、四日市で火星を自宅の望遠鏡で観測された方のことから書き始め、3回巡った火星の大接近までの時間を経て、この町の変わったこと、変わらないことを、レポートしたいと思います。

#四日市公害 #コンビナート #工場夜景 #火星大接近 #環境問題

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