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感情電車 #5 「就職に有利?は?」

二月に入り、学年末試験が終わった。高専一年の課程を修了する頃に、乗船実習に行っていた商船学科四年の先輩らが帰ってきた。私を可愛がってくれていた先輩が沢山いるのが商船四年だった。
五ヶ月ぶりに会う彼らに成長した姿を見せてやろうという気勢とこれだけしか成長していないのかと思われたらどうしようかという不安の両方を抱えて、久しぶりに一緒にグラウンドで汗をかいた。技術面では流石に敵わなかった。遠くで蹴られたボールのキャッチも、対戦相手に奪われないように素早く出すパスも、相手を逃さないタックルも、どれもまだ彼らには及ばなかった。
しかし、コーンからコーンまで走ってバービージャンプするのを繰り返す練習やランパスといった、技術よりも持久力が試されるものに関しては、私の方が上だった。商船四年が肩で息をしながら辛そうな表情を浮かべている一方で、私は息を切らさずに平然とした顔でそれらをこなしていた。
遼さんを始めとした商船四年の面々は、「めっちゃスタミナついたな!すげえわ!」と口を揃えて喜んでくれたのだが、あまりにもあっさり彼らに良いところを見せることができて、なんか楽しくないなと思った。
五ヶ月間海の上で暮らしていた彼らよりも、五ヶ月間グラウンドで走り続けた私の方が体力面で勝っているのは当然な話なのだが、彼らのスタミナが落ちたのみならず、私のスタミナが明らかに向上していることも事実だった。この頃、どんな激しい運動をしても前ほど疲れなくなっていた。
体育の授業で毎回持久走を行う進学校に落ちたから、滑り止めで入学した高専でも圧倒的な体力を手に入れたいと思い、このラグビー部に入った。最近何をしても疲れない。これはもう目標が達成されてしまったのではないか。
練習後に部室に戻ると、遼さんは改めて私の持久力が向上していることに対して喜んでくれた。大好きな遼さんが喜んでくれていること自体は嬉しいものの、持久力について褒められたことに関しては素直に喜べなかった。褒められた時に嬉しいという感情を抱くにしては、褒めた人と褒められた私の間には能力差が開き過ぎていた。馬鹿に「勉強できるんだね」と褒められた時の感情に近いものがあった。
乗船中は息を上げる運動をする機会がなかっただろうし、今はまだ下船間もないから、持久力が酷く落ちている状態ではあった。これからまた持久力を向上させて、私に格好良い姿を見せてくれるのだと思う。だが、彼らのスタミナの激減が一時的なものだったとしても、私の目標は既に達成されてしまった。一時的とはいえ、上級生を超える圧倒的な体力を手に入れてしまった。
物足りなかった。神戸から富山へ帰るバスの中で感じた成長を上回る、更なる成長を欲していたのに。



2月19日。一人で東京を訪れた。幼馴染の翔と昨年の夏休みに訪れた以来の東京だった。二人で富山に帰ってきて、翔と別れた時、「高専に入った私だからこそできることをやろう」や「近いうちにまた東京へ行こう」などと心の中で誓ったのだが、実際はそう上手くいかなかった。
高専に入った私だからこそできることをやろうとは思っていたが、長らく高専にいる自分に対して肯定的になれずにいた。今も場面場面で高専に入学してよかったと思う瞬間があっても、入ってよかったと言い切れるほど高専生活を肯定できていない。近いうちにまた東京へ行こうとは思っていたが、忙しない日々が続いていてなかなか東京へ行くことができなかった。
初めての一人東京旅の主な目的は、後楽園ホールで行われる新日本プロレスとROHの合同興行・オナーライジングの観戦と、ガンバレ☆プロレス王子大会の観戦だった。
アメリカのプロレス界のインディーシーンに興味を持っていた私にとって、日本で滅多に見られない選手達を沢山見られるオナーライジングは十分に楽しい時間であったが、それ以上にガンバレ☆プロレスが楽しかった。
ガンバレ☆プロレスの王子大会はプロレスファン人生の中で最も楽しい生観戦だった。馴染みがなさ過ぎる王子駅を降りて、iPhoneで地図を確認しながら会場を目指して歩いた。聞いたことのない名前のパチンコ屋と、部屋の鍵に縦長のキーホルダーがついてそうな妙味のあるビジネスホテルの間にある地下のライブハウスがその日の試合会場だった。
開場時間ともまた違う、整理券配布開始時間を三十分程過ぎた頃に会場に着くと、DDTプロレスリング系列の団体の練習生だと思われる胸板の厚いお兄さんが整理券を配布していた。受け取った整理券は、紙切れの裏に黒のマジックで「62」と書かれたものだった。いくらでも偽れそうな整理券に、これが夢にまで見た日本のインディーかと興奮を覚えた。
東京を知らない私は、価格及び味が私の予測と大きく乖離することがないであろうモスバーガーに入って、昼食でも夕食でもない食事をとった。開場時間が近付くと、紙切れを握って再び会場へと向かった。
「1番から10番の整理券をお持ちの方は地下の方へどうぞ」と、先程整理券を配布していた練習生が10人単位で観客を会場へと案内していた。順番が来た私は地下へ潜った。思っていたよりも階段が長い。一体ここは地下何階なのだろうかというところまで来たところで、机を広げたスタッフの姿が見えた。
月に一、二度のペースで開催する王子での百数十人規模の興行によって成り立っていたガンバレ☆プロレスは、プレイガイドでチケットが取り扱われていなかった。代表の大家健に直接電話、あるいはメールを送ることで取り置きしてもらうしかチケットの入手方法がなかった。私は大家健にメールを送って、チケットを一枚取り置きしてもらっていたのだった。
スタッフに予約していた名前を告げた。

「大家さんに予約していたキムと申します」

「キムさん、ですね…。ありました、チケット代3,500円とドリンク代500円、合わせて4,000円になります」

お金を払って、チケットを受け取った私は、更に奥へと進み、ライブハウスの中へと入った。
サムライTVの番組「インディーのお仕事」の中継でいつも観ていた光景が目の前に広がった。テレビで観るよりも狭く感じた。決して広いとは言えないライブハウスの真ん中に大きなリングが立っているから凄まじい圧迫感があった。
会場内に併設されたバーにいる確実におばさんではあるが何歳なのか検討がつかない不思議な風貌の女性にワンドリンク券を渡して、コーラを受け取った。受け取ったコーラを片手に、私は着席した。
試合が始まると、プロレスを知らないクラスメイトでも知っているシバターが試合をしていた。パンダと力道山の孫が試合をしていた。お菓子が凶器として認められている試合で、今成夢人が指にとんがりコーンをはめて、「とんがりコーン・フロム・ヘル」と叫び、バンビに地獄突きしていた。冨永真一郎とGENTAROが見たことない動きを取り入れているけど全体としてクラシカルな試合をしていた。
そこには富山に住む私がインディーのお仕事を観ながらずっと憧れ続けた世界があった。私の知る東京の魅力は、そこにあった。
メインイベントは、大家健率いるガンプロ軍と藤田ミノル率いるトモダチ軍の6人タッグマッチだった。私がガンプロをいつか生で観たいと思ったきっかけは、藤田ミノルだった。私が高専に入学して間もない2015年5月のガンバレ☆プロレス王子大会で、試合後にマイクを握った藤田ミノルの告白に心留まり、ガンプロを生観戦したいという気持ちが高まったのだった。
結婚していること。娘が二人いること。家族のいる福岡で暮らしていること。いつまでプロレスで食べていけるか分からないから接骨院開業を目指していること。資格を取るために柔道整復師の専門学校に通っていること。朝に子供を幼稚園に送って、そこから夕方まで時給で働いて、夜は学校に通っていること。片手間でやっていたプロレスが楽し過ぎて留年したこと。浮気して離婚したこと。気が付けばパチンコ屋の寮で一人暮らししていたこと。
その全ての告白が当時の私の胸に響いた。私の両親も離婚しているから、色々と思うことがあった。藤田ミノルの言葉の一つひとつに震えた。
プロレスの魅力は、レスラーにあると思う。ファンのプロレスの楽しみ方が増えても、いつの時代だって、レスラーの人生やレスラーの叫びに、我々ファンは本当の感動を覚えるのだと思う。誰が見ても凄い試合をやることこそが至高という風潮がある昨今のプロレス界で、プロレスにしか見出せない価値を思い出させてくれたのが藤田ミノルだった。
勿論試合が面白いに越したことはない。だけど、近頃のプロレスは視覚に訴えることで勝負し過ぎな気がする。いつだってプロレスファンの心を揺さぶるものは、レスラーという生身の人間の物語に隠れていると私は思う。レスラーの物語に面白い試合内容が付随してくるのが理想的な形だと思う。
人生は繰り返せないから映画というジャンルが誕生した。登場人物の生涯を観ることで、自分の人生を豊かにするために映画は生まれた。それならばプロレスは、ファンがレスラーと共に成長するために誕生したジャンルだと思う。まだ反米感情が強い頃に力道山が空手チョップという如何にも日本らしい技で外国人を倒す姿に国民が熱狂したところから実質的な歴史が始まったジャンルだ。同じ時を生きているレスラーの人生を見て、ファンも一緒に成長するのだ。
プロレスは映画を超えた映画だと私は思っている。社会や家族と上手くやっていけない人間すらも受け入れてくれる、生きづらい人間だって輝ける、そんな素敵な世界がプロレスだと私は信じている。
プロレスの魅力を私に再確認させてくれた藤田ミノルが、東京事変の「秘密」に乗って登場してきた。ライブハウスクオリティの艶やかな青をしたスポットライトを浴びて入場してきた。音響設備の良さと会場の狭さが相まって、音に立体感が生まれた「秘密」に乗って入場してきた。王子の地下のライブハウスに駆けつけた122人の観客の前で戦うためだけにLCCに乗って東京にやってきた藤田ミノルが、手が届きそうな距離で戦っていた。
年に一度富山に巡業にやってくるメジャー団体のレスラーよりも、私の目にはよっぽど彼の方が眩しく映った。レスラーを見て、「本物だ…」と見惚れてしまう感覚に久しぶりに陥った。

ガンバレ☆プロレスの会場の熱量は異常だった。新日本プロレスの後楽園ホール大会の盛り上がりに感動していた自分は何だったのかと思うほど、異様な空間であった。リング上を見ても、客席を見渡しても、後楽園ホールで見かけないような人間達が生む異様な熱気に包まれていた。
地球の構造と一緒で、地下に潜るほどプロレスも熱いのかと思った。王子の地下のライブハウスで観たガンバレ☆プロレスは、私の知る限り、プロレスという地球のコアだった。レスラーと122人の観客の迸る偏愛を受け入れてくれる東京という街まで愛おしく思えた。

後日放送されたインディーのお仕事では、私が生観戦したガンプロ王子大会が取り上げられていなくて、かえって興奮した。テレビ放送がなくとも毎回あの熱を生んでいるのかと思うと、私のプロレス探究心に火がつくのだった。もっと色んなプロレスをこの目で見たいと思うのだった。



三月に入った頃、母から「佐々木社長のところでバイト手伝ってくれない?」と言われた。母の知人が営む居酒屋がアルバイト不足で悩んでいるそうだった。卒業シーズンだから大学生のアルバイトは続々と辞めるのに、宴会の予約は増える一方だから、今月だけでも力を貸して欲しいとのことだった。
高専では、大学一、二回生に値する年齢の四、五年生のアルバイトは認められているが、高校生に値する一年から三年生のアルバイトは家庭の事情などがない限り、認められていなかった。とはいっても、それは形式上の話であって、実際は小遣い稼ぎにアルバイトをしている一年生が沢山いた。
焼鳥屋でアルバイトをしているクラスメイトが、客としてやってきた先生とバイト先で出会したらしいが、その時何も注意されなかったらしい。「おお、ここで働いてたんだ」と言われただけだったらしい。そこから罰則を与えられるなどなかったという。放任主義の富山高専らしい話である。
「あの進学校に通っている学生で小遣い稼ぎにアルバイトしている学生などいないはずだから、アルバイトなんて始めたら高専に埋もれたことを認めたのも同然じゃないか」
と、これまでの私は考えていた。アルバイトは私の高専生活において、選択肢にすらなかった。
だが、少しは高専に肯定的になれてきた私は、一ヶ月だけなら働いてみようかなと思った。その居酒屋の社長とは顔見知りだったので、初めてのアルバイトにしては打ってつけな気がした。アルバイト自体は興味があるが、応募して、面接を受けて、という段階を自分で踏んでまでアルバイトを始めたいとは思わなかったから、良いきっかけなのかもなと思った。私は母に「手伝ってもいいよって伝えといて」と言った。
その翌日、母経由で社長から「他にも手伝ってくれる人おらんか?」と言われた。少し傲慢だなと思いながら、身の回りで誰か暇そうな人がいないか考えてみた。この春休みに暇そうで、稼ぎたそうな人。真っ先に思い浮かんだのが、ラグビー部の同級生の耕平だった。彼には彼女がいるからデートに掛かるお金が必要だと思ったし、何よりLINEのプロフィールのひとこと欄を毎日書き変えていたから、こいつは絶対暇してるよなと前々から思っていたのだった。
耕平に「今月だけでいいから居酒屋のバイトしない?マジで飲み物作って運ぶだけでいいらしいわ。場所は富駅徒歩3分で、時給は850円」という文面をLINEで送信した。すると直後に「やるー」と返信が来た。

3月7日昼。私と耕平は居酒屋を訪れた。合格が決まっている面接を受けた。
「週何で入れる?」「金土日連続はきつい?」「いつから働ける?」などとシフトに関する質問をいくつか投げかけられて終了した。
昼はランチもやっている居酒屋だったので、そこで耕平と昼食をとることにした。わさびを溶かした醤油を海鮮丼にかけながら、耕平は私に言った。

「俺、真面目に春合宿ボイコットしようと思ってる」

五年生がラグビー部を引退した後の一月中旬に下級生だけのLINEグループが誕生した。トークルームでは常にいつラグビー部を辞めるかという話題で持ち切りだった。下級生のほとんどは、上級生やOBにやられた何らかのハラスメントに値するであろう数々の行為の腹いせにラグビー部を辞めてやろうと考えていた。五年生が引退して、新しい年度が始まるタイミングであったから、確かに今が辞めどきかもしれなかった。
私も辞めたい気がしていた。だが、私の理由は上級生への腹いせではなかった。ラグビー部にいても、これ以上の成長が見込めない気がしたからだった。体力向上という目標は達成したし、もう怖い先輩もいない。神戸から帰ってくるバスに揺られながら感じた何かの殻が破れた瞬間を超えられる成長が、今後またやってくるとは思えなかった。
ラグビー部に入ってから全国大会が終わるまでの時間が濃密過ぎたから、これから始まるなんとなく楽しくて、なんとなくきつい練習が待つ日々を想像すると、刺激が足りないなと思った。
耕平は、上級生への腹いせで辞めてやろうと考えているようだった。これ以上の辛いことはやりたくないとも語った。全国大会で唯一試合に出場させてもらえなかったのが耕平だった。あれだけ辛い時間を過ごしたのに、あれだけ部員が続々と怪我していたのに、一分も試合に出場させて貰えなかったことで落ち込んでいた。
「あの状況で全く試合に出れんかったって、何のために頑張ってきたんだろって感じっすよ。俺だけ神戸行かんくてもよかったんじゃねって思いましたよ」と、全国大会を終えた後に二年生の先輩らに語っていた。笑顔と明るい声色を用いることで不満をネタに昇華していたが、それは歴とした不満だった。
もしも私が耕平の立場に置かれたらきっと同じことを思っただろうから、安易に「行かなくてよかったなんて、そんなことないよ」などと言えず、ただ彼が望む通り笑ってあげるしかできなかった。

「そっか。俺はとりあえず春合宿は参加しようと思うから、耕平いないと寂しくなるわ」

海鮮丼の具の中に紛れている大葉を箸で取り出して、小皿に移している私は、耕平の顔も見ずにそう言うのだった。



4月1日から春合宿が始まった。二泊三日の合宿だった。全国大会直前の冬合宿と場所は同じだった。練習するのは学校のグラウンドで、寝泊まりするのは学校の敷地内にある合宿所だった。合宿最終日に寮が開き、翌日には入学式が行われ、翌々日から授業が始まるという運びだった。
四泊五日の冬合宿に比べれば期間は短いし、怖かった上級生達は卒業しているし、以前の私よりも持久力があるから練習は耐えられるだろうし、大きな不安はなかった。でも寂しかった。下級生のうちの三人が合宿をボイコットしたからだった。
合宿数日前から下級生のLINEグループには、「俺行かんわ」「俺も行かずに辞める」「俺も行きません」といったメッセージが寄せられていた。
「本当にみんなこのまま辞めちゃうんだ。神戸の帰りのバス、めちゃくちゃ良い時間だったのにな」と思いながらも、辞めたい人間の言い分も理解できるから止められなかった。次々とやってくるメッセージに対して既読をつけることしかできなかった。
耕平は、神戸で出番をもらえなかったことが悲しくて、あれだけ辛いことをやっても報われないのならそんな部活辞めてやると言っていた。
羽鳥さんは、勉強が好きでこの学校に入ったのに、先輩に振り回されてばかりで、自分のやりたいことができずにいたから辞めると言った。
健さんは、先輩が嫌い過ぎるからという愚直な理由で辞めるそうだ。
合宿初日の集合時間になっても下級生の三人はグループLINEでの宣言通りやってこなかった。何も知らない新五年生の田中さんが、「あれ?あいつらは?」と、単なる遅刻ではないことを察したような顔で言った。
「分かんないんですよね」と、私は不安そうな表情を作って言った。隣にいる徳井さんに数分前まで「マジで来ないっぽいですね。飯にしろ洗濯にしろ、こりゃ僕ら一人当たりの負担増えますよ」と話していたのに、田中さんの前では知らない体を装っていた。
LINEをしても返事がないし、三十分待っても来なかった。「よし、練習始めっか」と田中さんが悟るように言った。
怒りのやり場に困った新五年生に理不尽なことをさせられるのではないかと危惧したが、そんなことはなかった。合宿は全くきつくなかった。
定年退職すると思っていたら定年後も二年は高専に務めることになったらしい笹村さんは、厳しい練習メニューを部員達に課さなかった。ランパスすらやらせなかった。これ以上辞められては困ると思ったのだろうか。
冬合宿に比べると、やってくるOBの数は少なかった。差し入れという名のハラスメントもなかった。いつも以上に食べさせられるのではないかと危惧した食事は、毎食少し多めぐらいしか食わされなかった。
遼さんは相変わらず練習後も涼しい顔をしている私を褒めてくれた。
あらゆる雑務は私と徳井さんに任されていたが、練習がきつくないから、雑務も苦にならなかった。先輩の服が洗い終わるのをランドリールームで待っていた私は、徳井さんに言った。

「色々きつくなくて有難いんですけど、なんかシンプルに楽しくなくないですか」

「それな」

「ここでこっそり先輩の愚痴こぼしてた時がなんだかんだで充実してたって皮肉じゃないですか」

「それな」

新しく覚えた言葉を積極的に使いたがる徳井さんは簡単な言葉しか答えてくれなかったが、心から同意してくれていることが私には伝わった。
私と徳井さんにとっては、辛くはないけど、楽しくもない日々が続いた。乗船実習に行っていた上級生と学校に通い続けた上級生は、久しぶりに共に過ごす24時間を心底楽しんでいるようだった。
そんな中、一人だけ辛そうな人がいた。マネージャーの女の子だった。女子マネージャーは三人いたのだが、そのうちの二人が海外留学へ行ってしまったのだった。
富山高専の国際ビジネス学科には、現地の提携校に通えば、留年せずとも一年間バンクーバーに留学できるという制度が存在した。但し、留学できるのは三年生の一年間のみで、海外に憧れを抱いている学生達が毎年三年生になるとバンクーバーへ旅立つのだった。
女子マネージャーのうち二人が留学に行ったことで、マネージャーが一人になった。今まで三人で用意していた部員達のご飯を、一人で用意してくれていた。
残ったマネージャーは、「ラグビー部は興味ないですか?」と最初に私をラグビー部に勧誘してくれた人だった。全国大会前のグラウンドで私が泣いていた時はいつも心配そうな表情で見つめてくれた。一度練習後に「頑張ったね」と言われた時は、せっかく泣き止んだのにまた泣きそうになった。
冬合宿初日にトイレで吐いていた時も、唯一「大丈夫?」と私を心配してくれたのがそのマネージャーだった。神戸へと向かうバスの中で私の寝顔を可愛いと言ってくれたのもそのマネージャーだった。
異性としてではなく、人間として私はそのマネージャーを好いていた。一言二言程度の会話しかしたことはないが、いつも見守ってくれている感じがした。そんな温かい人が合宿中誰よりも憂いを帯びた顔をしていた。
グラウンドの端でずっと一人で立って練習風景を見守ってくれて、食事の時間が近づくと黙って合宿所に戻るマネージャーの姿を見ていると、私が辛くなるのだった。今まではグラウンドの端に立っている時も他のマネージャーという会話相手がいたし、食事も三人で作っていた。だけど、今回の合宿では、あらゆることを全て一人で背負ってくれていた。
冬のグラウンドで「頑張ったね」と声を掛けてくれた時のように、私も声を掛けたかった。だけど、年上の綺麗な女性に一言声をかける自信がなかった。寄り添ってあげたいのだけど、この綺麗な女性に寄り添うのは年下で不細工な私よりも、年上でイケメンな上級生がやるべきことなのではないかと思ってしまう自分がいた。
「頑張ったね」は出過ぎているから、せめて「ありがとうございます」と声を掛けようと考えたが、「この人は何に対してありがとうと言ったのだろう」と思われてしまったら説明に困るからできなかった。モヤモヤする気持ちのまま一日目が終わった。

二日目の夜は、すたみな太郎へ行った。顧問や唯一仏のように優しかったOBが車を出してくれて、部員達はそれぞれの車に乗って行った。食べ放題のすたみな太郎へ行ったのは、部員達に沢山食べて欲しいという意図もあっただろうが、マネージャーの負担を減らしたいという意図もあったと思う。
私は徳井さんとOBの三人でテーブルに座って食べていた。新五年生は皆で固まって大声を出しながら盛り上がっていた。マネージャーは奥のテーブルで顧問と一緒に座っていた。伏し目がちにご飯を口へと運んでいる彼女の姿を見た時、賑わっている上級生のテーブルに段々と腹が立ってきた。
やはり彼女に寄り添ってあげるのは年上の人間であった方が説得力が増すと思うし、イケメンであれば尚更良いと思った。新五年生は顔の整った人が多かった。遼さんあたりが声を掛けてあげればいいのだが、遼さんは憂鬱な表情を浮かべるそのマネージャーを少し避けているようだった。
遼さんはバンクーバーへ行ったマネージャーのうちの一人と付き合っていた。彼女に嫉妬されたくないからなのか、交際していないマネージャーとは必要最低限の会話しかしないようにしていた。
「そんなの優しさでも何でもないやろ」
心の中でそう呟いている自分がいる。
あのテーブルに行ってマネージャーに何か話しかけたい。でも、今私が徳井さんと優しいOBのいるテーブルから去って、突然マネージャーのところに行くのは、傍から見たら奇行過ぎて現実的ではないし、そもそもマネージャーに声を掛ける勇気などなかった。結局またモヤモヤする気持ちのまま、笹村さんの車に乗って合宿所へ帰るのだった。
助手席に座る私に笹村さんが春休みに何をしたか聞いてきた。

「東京に行って100人規模のライブハウスでプロレス観たりしました」

「それは、何?楽しいの?」

「何てこと言うんですか。楽しさを疑ってくるって、プロレスなんて八百長とか言われるより傷つきますよ」

「ははは」

笹村さんの前でも口達者になっているのに、マネージャーには声一つかけられない私は女性という生き物に怯え過ぎなのではないかと思った。
車内にずっと流れていたサザンオールスターズのアルバムが次の曲へと切り替わった。切ないメロディーが鳴り響いた途端、運転している笹村さんが独り言のようにぼそっと言った。

「しおりちゃんの親御さんはサザンが大好きで、この曲から名前付けたそうだわ」

カーナビに目をやると、『♪栞のテーマ/サザンオールスターズ』と表示されていた。しおりちゃんとは残ったマネージャーの名前だった。
桑田佳祐の癖のある歌い方のせいで歌詞は上手く聞き取れないが、とにかく切ない曲だと感じた。
異様に胸が苦しくなった。この感情は何なのだろうか。



新学期が始まった。私は昼休みの一年生の教室に単身乗り込んで、体格の良い学生に「ラグビー部興味ない?」と声を掛け続けていた。「ラグビーはちょっと…」という控えめな断りが次々と返ってきていた頃、田中さんがやってきた。

「キム、来とったん?」

「来とったんも何も、だって下級生も来いよって言ってたじゃないですか」

「いや、そうだけど、てっきりやらんもんやと思ってたわ」

「戦力になってくれそうな子に声掛けてたところですよ」

「そっか。ありがとな。てかキム、明るくなったよな」

最近「明るくなったね」と人に言われることが増えた。先日も、クラスの男子学生同士のやりとりに割り込んだら、それを見ていたクラスメイトの女子が「なんかキムくん今日明るくない?」と言っていた。
確かに自分でも「いやそれさ」と急に話に割り込んだ瞬間に、「あ、声のトーンと表情を明るくし過ぎたな」と思った。自然体で話の輪の中に入っただけなのだが、昨年度の自分だったらここまで明るくなかっただろと、自分で自分を気持ち悪く思ってしまった。
昨年度の私と新年度の私とでは、童貞を卒業する前と後くらい明るさに大きな差があった。「童貞卒業した奴みたいに明るくなっとるやん」と周りに思われたらどうしようと恥ずかしく思った。
だが、明るく話に割り込んでしまった手前、いきなりテンションを落とすのも違うなと思ったので、少しずつテンションを下げるようにして話を続けた。そうすると今度は、「こいつ童貞卒業した人間みたいな心の余裕かましてるって笑われたくないから、徐々に昨年度の自分に戻してきとるやん」と思われたらどうしようと、もっと恥ずかしくなってきた。
それでも会話の輪の中に居続けたら、「なんかキムくん今日明るくない?」というクラスメイトの女子の会話が私の耳に届いた。大して親しくはないけど、取り敢えず私のことは毎日見ている同級生に明るくなったことを指摘されると、異常に恥ずかしかった。それ以降、明るくなってきている自分を隠そうと教室内では無駄に暗い表情を作ってみるなどした。

春休み中に母にも明るくなったと言われた。私の家族と母が営む英語塾の教え子の家族の二家族で行った韓国旅行の帰りのことだった。向こうの家族と笑顔で会話している私を隣で見ていた母に言われた。「なんかバイト始めてから明るくなったよね」と。
確かに居酒屋の接客バイトで明るくなったかもしれないが、バイトはあくまで実践編であり、基礎編はラグビー部にあった。神戸から富山へと帰るバスの中で人と話をすることの楽しさを覚えた瞬間があったのだ。自分の中の殻が破れた瞬間があったのだ。あの瞬間を経ていなければ、居酒屋でアルバイトをしたところで明るく接客することはできなかったと思う。

とにかく周りから見た私は、明るくなったらしい。私自身も多少は明るくなってきていることを自覚していた。



春合宿に来なかった三人が正式に退部し、一年生が入部してきた。私は何度も昼休みを返上して一年生を勧誘していたのに、結局私の勧誘によって入部した新入生は一人もいなかった。
毎日昼休みに一年の教室へ行く私を見た徳井さんが言っていた。

「キムくん、そんな行っても無駄だから行かんほうがいいって。結局俺らみたいな冴えない奴らが行っても一年には響かんからな。何も分かってない奴ほど、カッコいいとか可愛いとかそういう分かりやすいもんに心奪われるんよ。キムくんだって、可愛いマネージャーに声掛けられた後に格好良い遼さんに来てくれって言われてラグビー部に入ってきたわけでしょ?そゆことよ」

言葉を捨てたのかなと思うほど、最近の徳井さんは「それな」しか答えてくれなかったのだが、たまに的を射たことを言うから面白かった。
徳井さんが言っていた通り、私の勧誘で興味を示してくれる子はいなかった。私の勧誘に対しては「ちょっとラグビーは…」と答えておきながら、遼さんの勧誘には「ラグビー部興味ありました!」と元気よく答えていた糞野郎もいた。
そんな糞野郎と見るからにやんちゃな学生二人と見るからに真面目な学生一人の計四人が入部した。どの子とも仲良くできそうになかったが、彼らにとって私は唯一の一個上の先輩だから、良い先輩を演じなきゃいけないなと気を引き締めていた。
上級生の勧誘によって、新しい女子マネージャーも入ってきた。まだ全体的に洗練されていない女の子二人だった。男子部員が増えたことよりも、こちらの方が私にとっては嬉しいことだった。女子マネージャーが増えたこと自体が嬉しいのではなく、しおりさんの仲間が増えたことが嬉しかった。



一年生が入ってきてからのラグビー部は楽しくなさ過ぎた。私より下の世代が入ってきたからか、遼さんも田中さんも以前のように私をイジってくれなくなった。新入生がいない時に発散するように下ネタを求められることがあったから、きっとそうだったのだと思う。キムに恥を掻かせたくないという彼らなりの優しさだったのかもしれないが、新入生の前であろうと、私は今まで通りイジって欲しいと思っていた。
先輩は私と距離を保ってきてるし、後輩は基本的に生意気だし、同級生はいないし、練習は疲れるけど、辛いには至らない程度だ。何を求めて毎日グラウンドに通っているのだろうなと思うようになった。

「ああ、辞めてえ」

思いがどんどん強まっていった。
一年生の頃の私にとって、ラグビー部を辞めることは即ち辛い現実から逃げることだった。しかし、今の私にとっては、ラグビー部を続けることが逃げである気がした。流れに身を任せて、なんとなく生きるという逃げだった。
全国大会を終えた帰りのバスの中で成長を実感した。何かが吹っ切れる瞬間があった。人と話すことってこんなに楽しかったっけと思う瞬間があった。きっとこれが成長というのだろうなと思った。あの快感が忘れられなくて、あの日以降、「もっと成長したい」という感情が私の心の中で芽生えた。もっと色んなことを体験したい。もっと色んな人と出会いたい。そんな感情が芽生えた。
生意気な後輩と相容れる関係を築いていったり、教わる立場から教える立場になったり、ラグビー部を続けていく上で成長することもある。だが、せっかく自由な校風の富山高専にいるのだから、富山高専らしいことをやりたいと思った。五年間もラグビー部に時間を捧げるのは勿体無い気がした。
上の学年には学生でありながら起業してる人もいたし、趣味に時間を費やし過ぎて留年しそうな人もいた。私も真面目に目の前のことに従って生きて成長するよりも、狂うように生きて成長したいと思うようになった。何をやりたいのかは自分でも分からない。でも何かやりたい気持ちがあった。そう思えるほどには高専にやってきたことに肯定的になれていた。

四月下旬の昼休み。女性顧問の小林先生のもとにラグビー部を辞めたいと伝えに行った。私は、ラグビー部を辞めることが私の中でのラグビー部だという2005年の柴田勝頼みたいなことを話した。素直な言葉で話したから、てっきり理解してくれるものだと思ったら、直近で三人も退部しているからか、小林先生は私の退部を受け入れてくれなかった。

「その気がない人に続けさせてどうするんですか」

「続けてりゃいいこともあるわけじゃん。キムがバスの中で感じたっていう殻が破れた瞬間っていうのだって、別に元々キムがずっと求めていたものではなかった訳じゃん。不意に出会ったものだったわけじゃん」

「あの頃は目の前にあることに夢中でしたよ。でも夢中じゃない今、一歩引いた状態の今、このままラグビーを続けてもどうなんだろうって思うんです」

「続けたらいいことあるって。ほら、就職に有利になるし」

その言葉が癇に障った。舐められたものだなと思ってしまった。
「ラグビーを五年間続けてたというのは就職に有利になる」というのは、顧問も先輩もOBもずっと言っていたことだった。私が一年生の教室に勧誘へ行く前も、上級生に「新入生にはラグビー続けたら就職に有利になるぞって言っとけ」と言われていた。だが、私はその考えが大嫌いだったから、絶対に新入生にはその言葉を使わなかった。
「ラグビーを五年間続けていました」
確かに響きは良い。チームプレイだし、体力がなければやっていけないスポーツだし、好印象を受けるのは分かる。でも、ラグビーを五年間続けたこと自体が偉い訳ではない。ラグビーを五年間続けていようが、考えることを放棄しながら生きていたら何の意味はないと私は思っていた。
真剣かつ必死に話している最中に、浅はかな考え方を提示されて、かちんと来た私は、先生に捲し立てるように強い口調で言ってしまった。

「それは新入生を誘う時の謳い文句ですよ。この期に及んで僕にそんなこと言いますか。ラグビーを五年間やってたという上部の情報だけで採用する企業だったらそんなところ行かなくていいです。それにこの人間は五年間困難を乗り越えてきたと、五年間必死に考え続けたと想定して企業は評価してるのに、就職に有利になるよって短絡的に言ってる時点でもう考えることから逃げてるじゃないですか。僕は人間的に成長を遂げたいんですよ。後輩の指導とかもそうですし、ラグビーを続けたら続けたで得るものが沢山あるのは勿論分かってます。でも、ラグビー部を辞めた方が新しい成長に出会える気がしてるんですよ。せっかく縁があって自由な校風の富山高専に入ってきたんだから、色んなことにチャレンジしたいんですよ。僕は圧倒的な体力を得たいって思ってラグビー部に入りました。成長できる気がしたからラグビー部に入ったように、成長できる気がしてるからラグビー部を辞めたいんです」

しばらく沈黙が続いた後に小林先生が言った。

「そっか。だけど、キムの考えは一時的なものかもしれないから、一週間後の今日にもう一回ここに来て」

その日はそれで話が終わった。



一週間後に思いが変わらないことを小林先生に告げた。小林先生は「分かった」と言って、私は正式にラグビー部を退部することになった。
一週間前に言われた「就職に有利」という言葉に舐められたものだなと苛々した私は、その日の夕方の練習を無断で欠席した。以降ずっとグラウンドに行かなかった。
就職に有利と言われた当日、家に帰ってプロレスを観ていたら、ラグビー部の練習が終わった午後六時半に商船学科五年の先輩から「何かあったか?何でも言ってくれ」とLINEが届いた。そこには無断で欠席しやがってという圧は一切なかった。「何でも言ってくれ」の一言には優しさを感じた。きっと上級生もこれ以上部員が減っては困ると思っていたのだろう。だけど、ラグビー部への熱が完全に冷めてしまっていた私は、先輩からのLINEを既読無視した。
二日連続で休んだところで、遼さんからもLINEが届いた。昨日すぐにLINEをくれた先輩と言っていることは大して変わらないのだが、えらい長文だった。いつもは「オッケー」や「りょーかい」程度の言葉しか送ってこない遼さんだから、画面をスクロールしないと読み切れないほどのその長文を見ると、相当推敲したことが窺えた。これには少し感動してしまったが、退部の意思は変わらなかった。とりあえず既読マークだけつけて無視した。
その後も田中さんを含む他の先輩らからLINEが届いたが、全て無視してしまった。
唯一真面目そうな新入生からは、対面で「キムさん辞めるんすか?俺、キムさんいないときついっす。戻ってきて欲しいっす」と言われた。「辛い時間を共有してきた人間の言い方すんなや」と心の中で思いつつ、「申し訳ないけど戻る気ないわ」と言った。



五月中旬に学園祭があった。富山高専は私の通う射水キャンパスと本郷キャンパスの二つに分かれていて、本郷で学園祭を開催した翌年は射水で、というように毎年入れ替わりで学園祭を開催していた。
本当は行きたくなかったのだが、担任が学園祭の参加を絶対としていた。午前と午後に一回ずつ顔を出すようにと言われていた。各部の出店の中にラグビー部のカレーパン屋もあったから行きたくなかった。既読無視してしまっている先輩らと出会したくなかったのだ。ラグビー部のカレーパン屋は校門から近いところにあったため、担任がいる部屋に行くには避けて通れなかった。
小林先生への一瞬の怒りを理由に、あいつらと一緒にやってられるかと、意地になって黙り込んでしまっていた。あれだけ可愛がってくれていた先輩らのLINEを数週間無視してしまっていた。合わせる顔がなかった。
今日しかないなと悟った私は、学園祭前日の金曜の夜に全員に返信した。遼さんには、同じ文量で思いを綴った。
普段はあまり意志表示しない私がはっきりと辞めると言っている姿を見て諦めがついたのか、私の退部を止める者はいなかった。全員が優しい言葉で受け入れてくれた。

「そっか〜。わかった!キムがそう思ってるならそれがきっと正しいんだわ!」

前回とは文量に違いがあり過ぎる遼さんからのLINEからも、諦めがついたことが窺えた。哀しさを紛らわすための感嘆符がかえって哀しかった。


学園祭当日を迎えた。案の定、ラグビー部の屋台の前を通る羽目になった。身を潜めるようにして通ったつもりが「お、キム!」と声をかけられた。振り向くと、売り子をしている田中さんの姿があった。田中さんが「キム、次お前のシフトやぞ」とボケてきた。

「すみません、親戚が亡くなったので今日のバイトお休みさせて頂きます」

「学生バイトが当日休みたくなった時のクソみたいな嘘理由やめろ!」

私にそうつっこみながら、田中さんは顎を前に出した。田中さんとこうしてボケたりつっこんだりするのもこれが最後なのかと思うと少し寂しかった。
この時間だけは今後も続けたいくらい好きなんだよな。でもラグビー部、辞めちゃうんだよな。

「元気にしろよ」と私に言う田中さんの後ろには、新しく入ったマネージャー達と笑顔で会話しているしおりさんの姿があった。
ほっとする感情と切ない感情が入り混じったよく分からない感情に陥った。
辞めるからには、この瞬間を超える出来事に出会ってやろうと心に誓った。

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