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生きづらさを抱えたまま、生きて。


こんな記事を読んだ。

傷ついた気持ちや悲しみは、そもそも他人と比較するものじゃないんです。それは人それぞれ、完全に固有のものだから、症状の重さやエピソードのレベルは関係ない。うつじゃなくたって、みんなもそれぞれに辛かったり、苦しかったりするよね。


自分は鬱になったり、病院で症状を診断されたことはないけど、ずっと「生きづらいなぁ」って感じてた。

ぼんやりドラマーになりたいと思ってたけど学歴社会を気にして周りに流されて大学に進学したり、就職活動をしたくなくてフリーランスになったり、ベンチャー企業に就職してかなり自由にやらせてもらってたのに「会社員は無理だ」って思ったり、条件はいいのにシンガポールの暑さから逃げてフリーランスになったり。

自分の心を押さえつけたり、押さえきれなくて社会から見てマイノリティな方向に進んだりした。

心を押さえつけたら、ホッとする一方で体のどこかがモヤモヤしてたし、心のまま生きると周囲から応援はされても、理解されることは少なかった。

周りにうまく合わせることができなかったし、多分これからもできない。

自分が本当に心地いいと思える環境だったり、人間関係だったりを探して、動いて、選んで、ようやく27歳まで生きてこれた、と思う。

周りの目はもう気にならないし、この歳になると威勢じゃない自信もある。


だから、今「生きづらさ」を抱えてる人へ。

周りの目なんかどうでもいい。

その「生きづらさ」は自分だけのもの。

社会はこう判断する、友達はこう言ってる、親はこう思ってる、は関係ない。

自分が「つらい」と思えば、それは「つらいこと」でいい。

その「生きづらさ」はどこかで自分に心地いい環境をつくる要因になる。

歪さなんてあって当たり前。

その形が、今まで会ってきた大多数の人たちが形成する社会にフィットしてないだけ。

その自分だけの形を壊さないで、大事に抱えて、時間を積み重ねて。

耐えるだけ、だっていい。

動きたくなったら、動けばいい。

今の「生きづらさ」を抱えたまま、地球の中で心地いい場所を探し求めて、動いて、生き続けてほしい。

「生きる意味なんかあるの?」って聞かれることがある。

個人的に、生きる意味は「特にない」と思う。

でも、今目の前にいる大事な人とか、「大事な人」って聞いて想像する人たちとか、好きな人とか、その人たちのために生きていたい。

いっしょに時間を過ごしたい。

自分にできることがあるなら、精一杯やってあげたい。

「やりたい」を超えて求められることが出てきたら、死んでもいいなと思えるくらい幸せなこと。


小さな「やってみたい」も叶えたい。

夏フェスに出演したい。

大好きな人たちと、車とか、船とか、バイクで、世界中を旅するキャラバンをやりたい。それぞれのできることで現地で笑顔を生み出したい。

世界中の美味しい料理とお酒を食べ飲みつくしたい。

大好きな人たちといっしょに暮らせる家をつくりたい。

まだまだいっぱいある。

そんな夢ないよ、って思ったら「今日の夜何が食べたい?」って自分に聞いてみてほしい。

お金を気にしないで、それを食べてほしい。

「誰に会いたい?」でもいい。

その人にLINEを送ってほしい。


小さな「やってみたい」を叶えてあげたら、どんどん自分の心の声が聞こえてくるようになる。

それを一つずつ積み重ねて、気づいたら、居心地のいい世の中がある。


「生きづらさ」があって、今つらくても、生き続けてほしい。

人と比べないで。

自分なりの一歩を本当にゆっくりでいいから、足踏みしてもいいから、後ろを向いててもいいから、積み重ねよう。

1人じゃきびしそうなら、いっしょに歩こう。

死ぬまでなら、寄り添い続けます。

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