「キモくて金のないおっさん」になる世界線を回避するために

数年前、「キモくて金のないおっさん」というキーワードがバズった。弱者救済活動をされてた左翼の方が、どうしても現場で救いようがない、誰も救いたいと思わないような、清潔さもなければ好感も持ちえないような高齢男性たちを指してそう呼んだのである。活動家の人々に彼らを救いたいという気持ちがわかないのは「おまえたちがキモいと感じているからだろう」という、ある種のボランティア活動における欺瞞を暴くワードであった。

この話を聞いたとき、思い出したのはマザー・テレサだった。マザー・テレサは、誰にも目を留められることのない道端で倒れそして死んでいく人々を救おうとした。彼女の活動は、そうした人々に「幸福な死」を与えることであった。死ぬ間際、自分は孤独ではなかった、誰にも愛されたこともない人生ではなかった。そう思えて最期を迎える、その手伝いをすることがマザー・テレサの活動だった。

ある時、マザー・テレサはそんな男性の一人を抱きしめたのだという。いったい何年ぶりの人肌のぬくもりだったか。男性はマザー・テレサの体温に感動し、涙したのだという。

どれほどの寂しさ、どれほどの孤独が彼を襲っていたのだろう。人々とのつながりが絶たれ、惹きつけるだけの技術も芸もお金も持ちえず、ただ朽ちていくのを待つだけの日々は、いかほどの恐怖であったろう。

「キモくて金のないおっさん」というのは、そういう存在だ。しかしこれは他人事ではない。彼らの中には少なからず発達障害や病気を抱えてる人々も含まれるであろうことは想像に難くない。そうした病気や性質が、今はよくても将来我々の体を蝕み、誰も救いたい、助けたいと思えないような、「キモくて金のないおっさん」にしてしまうことは、きっとありえるのだ。

ただでさえ男性はその心身の調子を感じ取りにくい性質をもっている。20代や30代では気づかなくとも、じわじわと蝕んでくる「それ」は、40代に大病を患う端緒になる。そうして唐突に死んでいく人々も、少なからずいる。

死ぬのは構わない。だが自分の遺体はせめて処理してくれる人はいて欲しい。病気で身動きが取れず、働くこともできず、ただ生きてるのか死んでるのかわからない時間を過ごしたくない。

だから1秒でも早く、「キモくて金のないおっさん」になる未来を回避しよう。体力もない、能力もない、モテるわけでもなければお金があるわけでもない。そんな男の生きる道を、せめて模索していこう。

そんな話を、この note に少しだけ、実体験をまじえながら書いていこうと思う。

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