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神道と密教

密教の修法には必ず「神分」というパートがあり
行者が修法時に日本国中の神祇と関係ある諸天善神、冥官冥衆、諸龍等の為に般若心経と大般若経名を称え
悟りを開き神力倍増してもらい行者の修行や祈願に協力するように祈ります
その際には神道・仏法興隆、国家安穏、五穀豊穣等も必ず協力して貰います

神道は直接神祇にそれらを祈るのですが神祇に悟りを開いてもらうという発想は当然ないのです
神祇は般若の悟りを尊ぶということから、日本の神祇には般若系の経典の読誦が尊ばれます
江戸時代までは般若心経や理趣分の読誦や大般若経の転読などを神前で行うのは普通のことでした

密教の修行は自分一人の悟りだけではなく、必ず同時に現実世界での一般の人々の救済や幸福を祈ります
これは密教が大乗仏教であるからには当然のことですが、この精神が日本では神道と非常に相性が良く、密教のシステムや教えを神道は非常に享受して、独自の神道を生み出して行き神仏習合しました
私が理趣分読誦を授かったのも元は神祇と天部へのご法楽の為でした

神祇へのお供えは誠や真心が最上ですが、それだけではなく仏法の般若の智慧も神祇は非常に喜ばれます
これは神仏不二の観点から言えば当然のことで、人々を救うのに神や仏の表面の違いに執われる必要も無いのです

私はたまたま仏縁よりも神縁の方が強く神職になり、神道の祈祷をしていますが、実際は表の神道に対して裏は密教を修法しています
「禁秘抄」では宮中でも神事を先にし他事を後にすること、朝夕に敬神の叡慮は懈怠なく行うことが書かれています

もちろん寺院や僧侶の方々はまず仏法でしょう


古流の神道では己が身心を清浄にして自分自身を神籬にして神人合一することを目指しますが
密教では己が身を五輪塔にして、また曼荼羅にして、三密加持をして大日如来と一体不二になります
この二つはプロセスに違いはありますが、到達する所は同じです
ただ神道は教えが無く、密教には教えがあります


故に密教の方が大日如来と一体になる即身成仏へのプロセスが明解であり歩みやすく、正しい師について正法を修行すれば即身成仏はすぐそこにあります
逆に神道はシンプルでただ清浄と誠さえあればその身そのまま神であるが故に難しく、誰にでも開放されていても実際には選ばれし狭き門になっています


「行々として円寂に至り去々として原初に入る」という弘法大師の言葉は、そのまま神道の原初である太一真君天之御中主神との合一を現しています
これは神道と密教の行き着く先が同じであることの証拠です
この文に続けて「一心はこれ本居なり」とありますが、神道でも自分の心魂の本は原初=天之御中主神です


大日如来=天之御中主神(あるいは太元尊神)であるからこそ、神道=密教という観点での修行が可能です
慈雲尊者が
『神道の赤心は、密教の清浄菩提心を知ることに在り』
『神道は玄妙なり、わが密教と表裏を相為す』
と教えられているのは実践からの言葉だと思います


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