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母との死別。

はじめに

母の死から約一年、今でもあの時に起きたこと、そして母との思い出を頻繁に思い出します。

記事に書けば少し気持ちが紛らうのではないかと思い、ここで皆さんと共有したいと思ったので読んでいただければ幸いです。


母、精神病院へ搬送

私が去年二月に英国から一時帰国した翌日、母の統合失調症の再発で精神病院での入院が決まりました。

症状が明らかになったのは同日に起きた、兄嫁家族との食事会。両親と目的地に向かう時から何やら母の様子がおかしいのです。
ずっとひどい焦燥感に駆られていた様なので、すぐに私は “あ、今この場に居れる状態ではない”と分かり食事を終えた直後母を車で家に送ります。
しかしその途中で母の症状は限界でした。

「私をどこに連れて行くの?この道路も家も全て偽物!今すぐ戻って」

とひどい幻覚とパニックに襲われている中、重苦しいような口調で私たちに説得していました。


そこからなんとか病院まで連れてきたのですが統合失調症の再発が判明したことで長期の入院が決まり、私が一時帰国したにも関わらず日本滞在中は、待ちに待った母との時間を過ごすという夢が儚く散りました。


当時、精神病院ではコロナの影響もあり週1回の面会が許されているのみでした。そして母の症状も一向に改善していなかったので透明のドア越しで顔を伺うのみでした。計2回の面会を経て、母に手を触れることもなく英国への帰国になりました。


英国へ帰国

帰国後はすぐに有給を使い果たしたので一休みする暇もなく仕事の日常に戻らざるを得なくなりました。

母の精神病院では携帯の使用が制限されていた為、カメラ機能は許可されていませんでしたが、仕事が終われば母にメッセージを送り電話をし、元気になってきたよ、と伝えてくれるのは唯一の支えでした。統合失調症は治療をすれば完治は無理とも以前のように回復することが可能なので後3ヶ月を過ぎれば退院し元に戻れる確信がありました。

母はフィリピン人だったので、早く退院して一緒にフィリピンへ旅行しに行こうねと約束をしたり、病院食が苦手だったみたいなので今食べたいご飯は何かなどと常に話していたのを思い出します。

特に覚えているのは“ステーキ”。ずっとステーキが食べたいなあと教えてくれていたので私は父にそれを伝えていました。
ある日、父が私に一つの写真を送ってくれました。痩せ弱った嬉しそうな母とステーキの写真。母はその当時症状が良くなってきた為、週末は一時帰宅が許され、その時にサプライズで父がステーキを作ってくれていたのです。



癌の判明

ある日突然母から電話がありお腹に違和感があるとのことでした。数日経っても痛みが治る気配はないため父は精神病院を介して母の症状を見てくれる病院を紹介してもらい検査して行くことになりました。

その日は私の英国での転職先の最終面接でした。いくつか応募していた会社に落ちていたこともあって母のこともあり強い精神でいながら就職活動をしていたのですが、幸運にも内定の連絡が。


しかしその日、運の代償と思わせる一報が父の電話から今まで聞いたことのないような悲しい声が伝わってきました。



「お母さん癌だったんだ」

聞いた瞬間、頭が蒼白になりましたが、それでも私は大丈夫だという、根拠のない自信がありました。こんな状況でも癌は治す方法は沢山あるという甘い考えがありましたから。


私は帰宅中、お母さんとの最近の出来事や思い出がフラッシュバックし悲しさがいっぱいになり涙が枯れるまで泣いていました。そばにいてあげられなくても電話越しに母を勇気づけました。

癌に関する勉強もし、小さな希望ながらも私は決して諦めてはいませんでした。色々な覚悟が必要でしたが転職先との契約を伸ばし前職を早めに退職し、母に会いに行くことが第一優先だと感じていました。1ヶ月もしない内にですが、なけなしのお金で航空券を手にし、母を勇気付けようと看病の元再び帰国することを決意しました。


二度目の診断

しかし数日後、二度目の診断があり父から家族LINEで連絡が入りました。
それは今まで抱えていた希望が失望に変わります。


「輝幸、優花 へ
 母さんの病名、悪性リンパ腫『血液性の癌』
 ステージレベル4の末期状態、遺伝子的な要因
 あり、
 リンパ腫が胃や肝臓などに移転したもの。
 母さんの状態は車椅子が必要な状態で今日は
 院内検査など車椅子移動であった。
 自宅にいる分にはトイレくらいには行ける、
 ぎこちないが洗濯物を取り入れたりも。
 来週にも母さんを精神医療センターから引退
 してくれと。
 自宅で母さんの好きな食べ物や大切な人など
 面会するなど
 その意味は、母さんの余命は1~2ヶ月と宣告
 された!
 父さんも悲しみ、涙も枯れ果てたが、冷静な
 判断もできている。
 優花が帰国の日本行きフライトチケットを買っ
 た時から答えは出ていたんだ。」


母との再会

不治の病と言われるような非常に治療が困難な病気でも、母が死ぬわけなんてない、という複雑な気持ちでした。フライトの予約は最大限に早め、母に届けられるのは私の声のみ。

ある日母から電話がかかった時にとても辛そうな声で私を求めていたのは今でも忘れません。決して弱音を吐かない頑張り屋なところがある一面の母ですが、いつも私を頼りにしていたので、「大丈夫。すぐに迎えに行くから。諦めないで」と避けられない痛みや苦しさに対して電話越しで勇気づけることしかできなかった無気力感は非常に辛かったのを覚えています。


.  .  .

ベトナム経由の17時間の滞在乗り継ぎを経て、ようやく待ちに待った母との再会。


病院で横たわった母の姿は別人でした。非常に痩せ細っていて、お腹が大きく膨れ、目には活気が無く、腕には点滴が繋がれていました。肺が押しつぶされていたため息苦しそうにしていました。私の顔を見て少しでも元気になってくれれば、と願っているばかりでした。


精神病院であったため癌治療を施してくれる病院を探します。どこを当たっても病床の空いている病院はないし癌患者には門前払い。病院を一つ紹介してくれましたがそこは面会はほとんど不可能であったこと、抗がん剤を使うことでひどい苦痛の中でも私たちが寄り添えることはできなかったため、私と父は現在お世話になっている精神病院での看病を特別に受けていただくことになりました。
看護師さんは勉強の為、癌病院をあたり、母は寝返りも打てないほどだったので四六時中の看病をしてくれ、また地元が見渡せる素敵なお部屋を手配してくれるなど母にできることを精一杯尽くしてくれていました。



毎日自転車で病院に向かい、母の好きな父の手作り料理やフルーツを特別許可で持ちこみ限られた時間や制限の中で母が喜んでくれそうなことをしました。大好きなご飯や飲み物も口にすると咳込んでしまい、唯一してあげられるのは手を繋いでそばにいること。



母は私が英国へ帰国した約3週間後に息を引き取りました。


何も親孝行できなくてごめんね。お母さんがいなくて異国の地で辛いことたくさんあるけど天国から見守ってると信じてるから、お母さんみたいになれるように頑張るからね。

2024年3月29日




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