アイディア農場プロジェクト:「実現したい目的」と「手段としての法」の限界(2019/11/06更新、2019/11/2開始)

「このページは通読用のものではありません。
ここにあるのは、思考の断片、アイディアの種です。
毎日ひとつを取り上げて読み、それに対して考えを巡らせてください。
そこから、新しいアイディアが芽を吹き、成長することを期待します。」(野口悠紀雄さん)

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・法という手段の目的化。目的を忘れ、手段である法の文字だけを見て、遵守する。

そもそもヒトはなぜ目的を忘れてしまうのか? 忘れてしまった方が得だからなのか? 『進撃の巨人』をなぜか思い出した。

・法の限界。過去の哲学者、最先端の学者たちは、この問いのどう立ち向かったのか? どう立ち向かっているのか? 法は万能ではない。法が全てを解決してくれるわけではない。法技術も追求しなければいけないが、法以外の手段も模索したい。

この点においても、今の中国は、私たちの未来を映していると思う。

以下のような本を読んでみたいと思う。他にもお勧めの本があれば、教えて欲しい。知りたい。

法哲学と法哲学の対話 単行本(ソフトカバー) – 2017/4/21
安藤 馨 (著), 大屋 雄裕 (著)
5つ星のうち5.0/ 1個の評価
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4641125937/

・判例も万能ではない。特に、プライバシーなど、比較的新しい概念や捉えにくい概念については、判例だけを追ってしまうと、漏れが生じる。法務としては気をつけたい。日本の判例だけを追うのではなく、海外の判例を追うことも実は重要だ。

・国を規律するという意味でも法には限界があり、企業を規律するという意味でも規則・規程には限界がある。

▼法がない世界を想像し、法の意味を考える

手塚治虫は、死とは何かを考える際に、永遠の命があったらどうなるのかを考えたという。

私たちにとって、法は身近な存在だ。だからこそ、法の意味が捉えられない。それでは、逆に、日本において、SF的に法令がなくなり、鎖国をし始めた場合、私たちが立ち戻ることができる考え、立脚できそうな哲学はなんだろうか? どんな世の中が良く、どんな世の中が嫌なのか、それを裏打ちする価値観は何か?

ホッブズやロックやルソーが自然状態を考えたように、私たちが自然状態を考えるとしたら、どんな状態を想像するのだろうか? 日本の過去の哲学者や思想家は、何を想ったのだろうか? 1600年から1700年までと1870年から1930年までの二つの期間を調べてみたい。

「西田亮介/Ryosuke Nishida
@Ryosuke_Nishida
コンプライアンスはもちろん重要。しかし昨今グレーゾーンで「技術的に可能なこと」の範囲が拡大している。これらを法令違反ではないから、として、素朴に実装しようとして、様々な問題が生じている。人間的価値、社会的価値についての理解の重要性も増していくんじゃないですかね。」

▼法という手段の目的化

Takuji Hashizume @takujihashizume
ちょうど去年のいまごろ、有給5日義務化で夏季休や年末年始休を計画年休化するところまではありそうだなーとつぶやいていたけど、国民の祝日を出勤日にするアイデアまでには至っていなかった。 https://twitter.com/takujihashizume/status/1044027239711404032


Takuji Hashizume @takujihashizume
「手続き上の問題はなく、明白な違法性があるともいえない」 ドトール、休日減らして「有給奨励日」に 有給取得の“水増し”に厚生労働省「望ましくない」(ITmedia ビジネスオンライン) https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20191016-00000005-zdn_mkt-bus_all&p=2


義務化の目的が忘れ去られ(意識的か無意識かは分からないが)、手続きだけ守るという流れ。これは21世紀の今に始まったことではなく、ローマ帝国の時代から発生している事象なのではないだろうか。

手続きを守れなかったら、叱るよ(逆に、守ったら、褒めるよ)というアプローチだけではなく、他のアプローチはないのか?

また、手続きではなく、目的を達成させるための方法論はないのか?

法学の歴史の中で、どんな論点があり、どんな仮説が出てきたのか? 最先端の法学者の仮説はどんなものがあるのか? 例えば、行動経済学と法学との融合を進めたら、もっと効果的な法になるのではないだろうか。

別の論点だが、法の目的が、命を守る、身体を守る、健康を維持するのあれば、働く時間以外にも光をあてた方が効果的。 例えば、労働時間とストレスの大きさの積分値の累積を指標にする。 もちろん、計測コストとの見合いだが、命、身体、健康に影響を与える要素から考えてはどうか。

労働法の話を続けるのであれば、今のままでは、冷たい生が世に溢れ、生きることの不幸が蔓延する。死ねないという不幸。手塚治虫が火の鳥で描いた世界に通ずる。生かす殺さず。最悪な状態だ。それは資本主義の要請でもあるのだろう。そして、今に始まった事ではなく、過去から続いている事象である。

話を戻そう。目的から考えれば、もっと規制はシンプルになるし、もっと効果的になる。 もちろん、ルールが複雑になってしまう力学が働いているのだろうが、そのあたりの最先端の研究も知りたい。

要するに、要件効果のその中身を吟味しないと企業の行動は変わらない。それどころか、本末転倒な行動を誘発してしまう。むしろ、逆効果の場合だってある。企業の行動を、目的の方向に変えるとしたら、どんな規制をすれば良いのか、どんな法律であれば良いのか。それを科学する必要がある。

ただ罪刑法定主義によって、罰すべき行為そのものを具体的に定めなければいけない。それに引っ張られるので、法に定める際は、目的ではなく、手段に注目が集まってしまう。結果、目的を達せられないルールになってしまう。

法律の要件効果と、実際の帰結としての目的達成という意味での効果は切り分けて考える必要がある。人間の本性を捉えて法律の要件効果を考える。人のアクションを規制することはできるが、目的を規制する事は難しい。でも目的がないがしろになっている今の現状は問題なのではないか。そのような過去の法学者や法律実務家は検討したのだろうか。検討したのだとしたらどんな検討したのか。そのあたりを調べたい。

▼納税額の低い人を「税金泥棒」と見なす社会は、どう克服されてきたか https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65447

暗黒時代から啓蒙思想の時代への大きな歴史の流れを読むことができ、この記事はその意味でも面白い。

・「「権利と義務は表裏一体の関係である」—— 義務とは、「軍役」のない日本では納税になろう——というのが現代社会に蔓延する最大の誤解の一つである。この誤解は、特権(Privileges)と権利(Rights)の区別がついていないことによって生じている。特権とは、中世から初期近代にかけて存在した封建社会における法概念である。」

ジョンロックが権利を発見した。

・「ロックが特定した自然権が、十分に考えられたものであることは、現代の刑法の仕組みを思い出せばよく分かる。人間の自然権を抑制する刑罰は、すべて「生命」・「自由」・「財産」に関するものである」

この観点は重要だ。特にプライバシーについて考えるときに、この三つの枠組みをおさえておけば、何が源流かを特定しやすくなる。プライバシーは、生命ではないのだから、自由や財産に関連するものだと言っていい。それでは、プライバシーと自由、プライバシーと財産ということを考えた場合に、具体的にはどうなるのだろうか? そもそもプライバシーについて、どんな権利を持っているのか?

プライバシーに関する自由が奪われるということは、どんな場合が想定されるのか?

プライバシーに関する財産が奪われるということは、どんな場合が想定されるのか?

プライバシーは、本当に、生命、自由、財産にだけ関連づくものなのだろうか?

ちなみに、生命、自由、財産という枠組みで、日本国憲法は構成されているのだろうか?

ロック(フランス革命時の右側)が考える自然状態と自然権、ルソー(フランス革命時の左側)が考える自然状態と自然権の違いは何か?

※左とか右とかよく言うが、相対的な概念である。そもそも、右と左、左と右という軸で考えると、本質を見失うので注意が必要。左や右を使う場合は、注意深く使わないといけない。世の中の流れは、ルソーとロックという2人の考え方の往復、波であると捉えると良い。そう捉えると分かりやすい。

※確かに、フランス革命の時は、ルソーを信じる人が左側、ロックを信じる人が右側に座った。一方で、通常言われるのは、右は伝統や民族を信じる人、左は伝統や民族を信じず急進的な革命を起こそうとする人たちだ。でも、左と右は混乱する。だから、左や右という言葉を使わない、その代わりにルソーやロックを使うということを提唱している。そうすることで、ロックが必要とされ、時間が経過すると、ロックに対抗しようとするルソーが出現するが、やはりロックに負けてしまう、その繰り返しである。その波を理解し、大局をつかむことが大切だ。

ロックは『統治二論』の出版年はいつか? ホッブズとの前後関係はどうか?

ロックが考える自然権とは、「生命」・「自由」・「財産」に関する権利のことだ。「平等」は入っていない。なぜ「平等」が含まれていないのか? ちなみに、「博愛」という概念はどこから来たものだろうか? 「博愛」という概念の出現は、唐突に思える。

人が生まれて最初に行う契約は、社会契約なのか? 日本においてもそう考えられているのか?

・「国家とは、社会契約の当事者となった人間(国民)の自然権を保全するためのものであり、中世に見られた「特権」の発生を抑制する体系なのである。」

・「これは、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で、イワン・カラマーゾフに語らせた問題である。「もし神が存在していないならば、人間の営みに価値などないのではないか」」

ロックからカントにバトンが渡った。ロックは、源流を「神」に求めたが、カントは、人間が理性的存在であることに根拠を見出した。

カラマーゾフの兄弟、自然権、生命、自由、財産。

・「野蛮とは何か。それは理性が導く道徳原理を省みないことである。理性が導く道徳原理とは、「人格はあくまで目的であり、人格をモノとして扱わないこと、人格を何らかの目的のための手段として用いないこと」、これである。

ロックは、人間の自然権は、「生命」・「自由」・「財産」と言った。ここから具体的な原則が導かれる。人格を財産の客体にしてはいけない。かりに同意があっても、人間をモノとして扱う行為は排除しなければならない。」

・「まずは、国民国家という規範の城塞で、国民の権利を保全するべく目の前の諸問題の解決に当たるべきだろう。というのは、我々は、なぜか一番重要な原則を忘れがちだからである。現に、「国民国家とは国民の権利を保全するために存在している」という原則を見事に皆が忘れていたではないか。おそらく、忘れさせる仕組みが存在するのである。」

▼別の文脈だが、法の限界の具体的事例

考えさせられる事案。

レピュテーションリスクは確かにそうだ。一方で、法的な武器を使って、何かできないものだろうか。

不法行為責任を問うのも難しいのだろう。

逆に、侵害している側の法務であれば、法的にどう説明して、やめさせるのか?を考えたい。


民法第90条の「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。」は、実際、どの程度、使えるものだろうか。調べてみたい。

以上


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