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10年振りぐらいにマウリツィオ・ポリーニを聴いて

〔プログラム〕
ショパン:前奏曲 嬰ハ短調 op.45
     舟歌 嬰ヘ長調 op.60
     2つのノクターン op.55
     子守歌 op.57
     ポロネーズ第6番 変イ長調 op.53「英雄」
ドビュッシー:前奏曲集第2巻

〔アンコール〕
ドビュッシー:沈める寺
ショパン:バラード第1番 op.23 

若き日のイメージからか、楷書体の演奏を期待される向きもあるかもしれないが、そんなスタイルはとうの昔の話。少なくとも十数年間以上前からライヴでは草書体の演奏スタイルをとるポリーニ。

個人的には、全体の構成を崩してしまうほどの草書体によるショパンの演奏にはどうしても違和感を感じてしまう。舟歌のような、晩年の諸作だと尚のこと。しかし、どうだろう。ドビュッシーの晩年の作品だと事情が異なってくる。

ポリーニが後半に演奏したのはドビュッシー「前奏曲集第2巻」。情景をイメージしやすい第1巻と比べると、具象性が退行しているの誰の耳にも明らかな作品だ。同時期に作曲されたバレエ音楽「遊戯」と並び、ドビュッシー作品のなかでも突出して先鋭的な性格をもつ(最終曲「花火」を除けば、ドビュッシー好きでなければあまり馴染みがないかもしれない)。

ハーモニーの可能性(簡単にいえば、不協和音をいかに美しく響かせるかという実験ともいえるか?)を追求した抽象的な音世界は、やもすると、指さばきのためのエチュードになってしまったり、譜面通りにかっちり演奏することで楽曲の自由さが構成の弱さに直結してしまったりするケースが大多数だ。語弊を恐れずにいえば、あのサンソン・フランソワさえ、前奏曲集第2巻については、あまり崩さない楷書的な演奏をしているように感じる(恐らくは歌心で解釈出来るような音楽ではないからだろうか?)。

それに対し、ポリーニが今宵演奏した前奏曲集第2巻からは、この作品がもっと未来を志向した音楽であることを否が応でも感じさせられた。ちょっと大袈裟にきこえるかもしれないが具体的にいえばブーレーズのソナタ第2番のような抽象的な音世界に連なっていくような作品だと強く思わされたのだ。

弾きようによっては耳障りな不協和音となってしまうような音の重なりを、持ち前の美音と、卓越した聴覚センスにより、繊細さを全曲にわたり保ち続けたのはいうまでもない。それよりも驚かされたのは、ドミナントモーションも、それに代わる和声解決も、どちらないセクションにおいて、繊細な心遣いで要素ごとに弾き分け、絶妙なコントラストを形成していたこと。こうすると抽象的が下がり、この楽曲が大変聴きやすくなることなど、いままで気付かなかった。更には草書体的なテンポの作り方が、各曲の有機性を高めていたことも付記しておこう。

何はともあれ、老年期のポリーニに対するイメージを大きく変えることができた、とても素晴らしいコンサートだった。

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