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【書評】小林淳 著『ゴジラ映画音楽ヒストリア』

 2016年現在、映画・映画音楽評論家という肩書で著述活動をおこなっている小林淳氏の新著『ゴジラ映画音楽ヒストリア』が2016年8月末に出版された。小林氏が書き手としてこれまで主に何を取り扱ってきたのかは、彼がこれまで手がけた書籍を並べれば一目瞭然である。全13冊中、9冊のタイトル(ならびにサブタイトル)に伊福部昭の名が含まれているからだ。

伊福部昭の映画音楽 (1998)〔井上誠 共編〕
・日本映画音楽の巨星たち〈1〉早坂文雄・佐藤勝・武満徹・古関裕而 (2001)
・日本映画音楽の巨星たち〈2〉伊福部昭・芥川也寸志・黛敏郎 (2001)
・日本映画音楽の巨星たち〈3〉木下忠司・団伊玖磨・林光 (2002)
伊福部昭 音楽と映像の交響〈上〉(2004)
伊福部昭 音楽と映像の交響〈下〉(2005)
・ゴジラの音楽――伊福部昭、佐藤勝、宮内國郎、眞鍋理一郎の響きとその時代 (2010)
伊福部昭綴る―伊福部昭論文・随筆集 (2013)〔編者〕
伊福部昭語る―伊福部昭映画音楽回顧録 (2014)〔編者〕
伊福部昭と戦後日本映画 (2014)
・本多猪四郎の映画史 (2015)
・岡本喜八の全映画 (2015)
伊福部昭綴る〈2〉―伊福部昭論文・随筆集 (2016)〔編者〕

 小林氏の著作の魅力は、何と言っても伊福部昭をはじめとする当事者本人への取材にもとづく記述である。晩年の伊福部昭に対して10年以上の長期間にわたり繰り返しおこなわれたインタビューを元に書かれた資料は、今後の伊福部研究のうえでかけがえのない資料となることは間違いない。加えて、伊福部昭が音楽を担当した数多ある映画をカバーできるほどの邦画に関する造詣の深さも、そう簡単に他を寄せ付けないだろう。

――既刊著書との違い

 ゴジラに特化した著作としては2010年に出版された『ゴジラの音楽』が挙げられるが、取り扱われているのは1975年の第15作『メカゴジラの逆襲』まで(いわゆる昭和ゴジラ)ある。1980年代以降の平成ゴジラについては、伊福部の担当作については他の編著書で取り扱われているが、伊福部担当作以外の平成ゴジラの音楽についてまとめて著述するのは『ゴジラ映画音楽ヒストリア』が初めてのようだ。しかし単なる続編ではなく、『ゴジラの音楽』では映画のあらすじを追いながら、逐次的に音楽や音響に語っているのに対し、本書『ゴジラ映画音楽ヒストリア』ではそこまでの詳述はされていない。両書の冒頭を比べると、その違いがはっきりと明言されている。〔※太字は引用者による。〕

 本書『ゴジラの音楽――伊福部昭、佐藤勝、宮内國郎、眞鍋理一郎の響きとその時代』は、〔中略〕昭和期に製作された東宝のゴジラ映画十五作品から流れてきた劇音楽の形態を見ていきながら、その鳴りがドラマ、映像にいかに機能し、何を生じさせていったか、などを論考するものである。〔中略〕ゴジラ映画に音楽を供してきた音楽家たちがいかなる個性を持ち、どのような作風を展開していったか、その変遷などについても、その時代背景、時代情勢を視野に入れつつ、その〈同時代〉も念頭に置きながら触れていく。

 本書『ゴジラ映画音楽ヒストリア 1954-2016』は、〔中略〕東宝ゴジラ映画二十九作(海外版、並びにハリウッド版は含まない)で流れてきた音楽の姿、その響きがいかに映画に作用したかをなるべく簡略に、鑑賞の際の一種のガイドブック風にまとめたものである。

 「論考」と「ガイドブック」の違いは、割かれる紙面の量にも如実にあわられている。昭和ゴジラ15作を語るのに要している紙面が、『ゴジラの音楽』はA5判で400ページ以上であるのに対し、『ゴジラ映画音楽ヒストリア』はサイズも四六判になった上、150ページ以下におさえられている。

 両書の違いとしてもうひとつ着目したい点がある。作品間の変遷という視点が『ゴジラの音楽』と比べると『ゴジラ映画音楽ヒストリア』ではかなり削られているのだ。『ゴジラ映画音楽ヒストリア』の帯(腰巻)には「音楽に着目したゴジラ映画通史」と書かれていたため、筆者はゴジラ映画における音楽の歴史的な変遷を期待して読み始めたのだが、通史的に連続性を強調するというよりも、個々の作品ごとに独立して読めるような作りになっている(東宝ゴジラ映画全てを扱っているという意味で「通史」という言葉を用いているのだろう)。

――ゴジラと音楽をどう語るか?

 さてここからは本書のなかでどのように語っているのかという具体的な部分に踏み込んでいくことにしよう。小林氏は、おおよそ次のような順番で各作品ごとに記述を進めていく。①と②で基本となる最低限の情報を提供した上で、③で多角的な視点で簡潔に作品のポイントを抑えていく。それから、④で本書の本題である音楽について要点を絞って説明していくという流れだ。

①音楽担当者プロフィール(※初回登場時のみ)
②作品クレジット
③制作の背景・過程・受容、物語の粗筋・意義など(※要素が混在)
④音楽について(制作経緯、特徴、意図など)

 結論からいえば、小林氏の真骨頂はやはり③の部分にあるといっていいだろう。前述した『ゴジラの音楽』(2010)では、各映画ごとの記述が、それぞれ1本のドキュメンタリーになるのではないかというほどの濃密さで、制作当時の空気感が伝わってくるかのような趣きだったが、対する本書ではエッセンスのを巧みに抽出し、文量が大幅に圧縮されながらも空気感を伝えているのが見事だ。ただし、後半に進むほど熱量や濃度が下がっていくのは否めない。とりわけ、ミレニアムゴジラ以降の記述は一気にトーンダウンしてしまうが、これは小林氏以外の書き手であってもこうなってしまうことが予想がつくため、致し方無いだろう。

 ただし昭和ゴジラであっても、残念ながら書かれている内容や文章について気になる点が散見されるのもまた事実だ。筆者が気付いた問題点から一部抜粋して例示しておく(現在、ことに関心が高い、初代ゴジラとシン・ゴジラを中心に抜粋した)。

テクニカルターム用法の曖昧さ
1作目と2作目について、それぞれ下記の通りの記述がなされているが、
『ゴジラ』(1954)
「本作によって東宝に、並びに日本映画界に〈怪獣映画〉〈SF特撮映画〉という巨大な映画ジャンルがもたらされた。」
『ゴジラの逆襲』(1955)
「そして日本映画界に今までなかったジャンル、〈特撮怪獣映画〉を確立させていく。」
⇒「〈特撮怪獣映画〉を確立」というのは、「怪獣同士の対決というフォーマットの確立」を指していると推測できるが、〈〉で括られた用語の使い分けなどが不明瞭であるため分かりづらい。

❏ 単純な誤植
鷺巣詩郎を「鷲津」と誤記している部分が何箇所か見受けられた。シン・ゴジラ公開後に出版を急いだことは分かるが、校正の甘さは否めない。

――音楽そのものをどう語るか?

さて、前述した問題点はそれでも些細なものだ。語ろうとしている内容は想像で補えるからだ。ところが音楽と音響に関する具体的な記述になると、より多くの問題点を露呈してしまっている。初代ゴジラに限って、いくつか例示してみよう。

和声を排除した旋律
⇒タイトルロールに流れるメインタイトル楽曲についての説明であるはずなのだが、主題と伴奏を組み合わせれば、はっきりとF-A-C(ファラド)の和音が鳴っている。それにも関わらず「和声を排除した旋律」というのはどういう意味なのか?「〔機能〕和声を排除した旋律」という解釈も出来るかもしれないが、明らかにE-G#-H(ミソ♯シ)の和音に解決しているため、こちらも考えづらい。

テューバやトロンボーン、トランペットなど重低音を効かせる金管楽器群
⇒トランペットは重低音を担う楽器ではない(せいぜい中音域)。

無調の荒い十二音音階
⇒十二音音階という言葉はあまり用いられないが、意味的には半音階にあたる(Googleで検索すると、あまり用いられないということがご理解いただけるだろう)。十二音音階というよりも半音階的(クロマティック)という表現の方が適切であろう。更に、音階(スケール)を演奏してるわけではないので、「無調の荒い十二音音階」というよりも「無調的で荒い半音階的モティーフ」などと書き表すべきだったかもしれない。

エレクトーン
⇒エレクトーンが誕生したのは1959年にも関わらず、1954年の『ゴジラ』に関する記述でエレクトーンを使用したと言及。伊福部本人がエレクトーンを使用したと話していたのかもしれないが、裏とりが必要だったのではないか?〔出典:エレクトーンの変遷

通常は用いない楽器の響きを前面に出す音楽フォーム
⇒フォーム formは、音楽分野では通常「形式」と訳され、時間軸においてどのように音楽的要素が構成されているかということを意味する用語である。ここでのフォームはそのような意味ではなく、雛形やパターンのような意味での「型(かた)」

通称「ゴジラの恐怖」(「ゴジラの猛威」)の原型となった楽案
⇒この部分の記述だけでは曖昧なところがあるが、『キングコング対ゴジラ』における記述も合わせて読めば、初代『ゴジラ』においてゴジラにあてられたモティーフが、『キングコング対ゴジラ』以降に登場する「ゴジラの恐怖」と呼ばれるゴジラにあてられるモティーフの原型になっていると説明しているのは間違いない。

 ただ、このふたつの譜例を比べても分かるように原型と呼ぶにはあまりにも要素が異なっている。(初代ゴジラにおけるゴジラのモティーフは、どちらかというと「大戸島のテーマ」と結び付けられているのではないか?、詳細は拙稿の『音楽から読み解く「シン・ゴジラ」の凄み』をご覧いただきたい。)

 いかがだっただろうか? 初代ゴジラの部分に限っても、突っ込みポイントがこれほどあるのがお分かりいただけたかと思う。小林氏は、映画音楽の専門家ではあるかもしれないが、音楽の専門家ではないため、音楽に関する部分の文章表現に難があると言わざるをえないのだ。本来であれば、編集者的な立場がこうした部分にチェックを丁寧にいれるべきだったのではないだろうか。緊急的な出版だったのかもしれないが、それにしても詰めの甘さを随所に感じざるを得なかったのは非常に残念である。

 小林氏が伊福部昭研究に果たした大きな役割に敬意を表しつつも、音楽を文章で記述するという点について、『ゴジラの音楽』から進んだ点がみられなかったことにどう向き合うのか?(引用はしないが、Amazonの低評価レビューでも同傾向の指摘が見られる。)小林氏が今後どのようにこの点に向き合って行かれるのか? 次回作以降も注視していきたい。

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