なんで逃げたかって?
小学5年生。エネルギーで溢れていて、輝いていて、だけど多感で脆い普通の小学生だったある少年には、少し普通でないことがあった。
5年間通った学校と、11年間過ごした地と、そして父親と離れることになったのである。
少年はそんな状況を喜んだ。
いつだって普通だった少年は特別に憧れていたからである。
皆の寄せ書きや、サプライズや、実は好きだったと告白してくる女の子。別れが決まってからの短い時間の間に、少年は漫画の主人公になった気分でいた。
だから、「ごめんね」と謝る母には「転校なんて全然悲しくないよ」と言っていたし、むしろそうやって悲しそうに謝る母を守っていかなければと、少年は幼いながらに固く決意していた。
「僕は主人公だからね」
そんな言葉が当時の少年の密かな口癖であった。今ならなんだってできる、本気でそう思っていた。
しかし、期待に満ちた新生活は、思った以上に強敵だった。
転校したてはみんなにもてはやされて、やはり主人公気分だった。
「前の学校はどんなところだったの?」
「このゲーム知ってる?」
「付き合ってた子とかいるの?」
少年はいつも話の中心にいて、自分の言葉はみんなを動かして、成績だってよかったしなんだってうまくいった。
でも、そんな様子を悪く思う人がいるなんて、少年にはとても想像できなかった。
転校したクラスでもともと人気者だった彼は、少年のことを良くは思わなかった。
いつも周りからちやほやされていたのに、少年にその立場をとられてしまい、腹立たしく思ったのである。
彼はみんなに密かに声をかけた。
「あいつ、最近調子乗ってないか?」
理由なんてなんだってよかったのだろう。
少年はその日を境に、教室から姿を消した。
正確には、みんなの視界から消えたのである。
少年がどんなに声をかけても、誰も返事をしてくれなくなった。
例えば、筆箱を隠されるとか、椅子をけられるとか、バカにされるとか、そういうものが「いじめ」だと思っていた少年にとっては、そんなみんなの行動が理解できなかった。
最初は腹立たしかったけど、これも「いじめ」なんだなと理解できるようになったころには、段々恐ろしくなってきた。
「いつ口をきいてもらえるんだろう」
「みんな自分のことをどう思っているのだろう」
「もしかして今度は何かもっとひどいことをされるんじゃないか」
「きっとあの人は嫌々いじめに参加しているだけで、自分のことをそんなに嫌っていないはずだ」
誰も答えてくれないから正解がわからない。みんなの感情がわからない。言葉がないことがこんなに怖いのだと、少年は身をもって実感した。
そんなクラスの異変を感じ取った先生は、対策を講じるでもなく、むしろ少年を遠ざけるようになった。
少年にかかわると何故だかクラスが凍り付く。先生は一人の生徒を救うことではなく、多数の生徒に好かれることを選んだのだった。
そうして完全に存在を消されてしまった少年は、それでもあの頃のことを忘れられないでいた。
「僕は主人公だから」
そう心で唱えながら必死にその状況に耐えていた。
例えば、学校に行く前に、小さな声で
「サイレス!」
と唱えていた。
大好きだったゲームの魔法で、これをかけられたものは言葉を発せなくなり、そのせいで魔法が唱えられなくなる。
「僕はサイレスを自分にかけたから喋れないだけなんだ」
そうやって少年は自分に言い聞かせていた。
そんな魔法も効かないくらい、少年の心は今にも崩れそうな状態だったが、決して母には弱い部分を見せなかった。
昼間は必死に働いて、家にいる間は自分の面倒をみてくれている母は、いつだって笑顔だけど、いつだって崩れてしまいそうで、そんな母を守らなければと少年はずっと思っていた。
少年はずっと、本当にずっと一人だった。
学校では喋らず、家では明るく振る舞って、本当の自分の言葉を、少年は長らく耳にしていなかった。
そんなある日、少年は久しぶりに故郷に帰った。
平日、母が朝早くから仕事で、その日は家に自分一人。
学校には電話で「風邪で休みます」と言って、母にばれないようにランドセルを背負って、そしてずっと貯めていたお小遣いをもって家を出た。
少年は一人電車に乗り、片道1時間半の道を出発した。
それは少年にとって本当に冒険だった。
友達と会えるという楽しみは大きかったが、不安のがもっと大きく、少年は自分の中で鳴り響く色んな声に戸惑っていた。
母にばれたらどうしようとか、ちゃんと帰れるだろうかとか、そしてかつての友達はみんな自分と話してくれるのだろうかと、色々な不安が少年に語り掛け、少年を押しつぶそうとしていた。
そんな風にしていたら、目的地をいつの間にか通り過ぎ、結局3時間もかけてなんとか少年は故郷にたどり着いた。
時刻はもう12時を回り、おなかもすいてきたけど、そんなにお金があるわけでないので、少年は昔よく行っていた公園にある、木の陰に隠れた「秘密基地」で時間をつぶそうと考えた。
「きっと学校が終わったらみんなこの公園に来るだろうし、隠れてみんなを脅かしてやろう」
そう思ってじっと身を潜めていた。
近くには時計がなく、いったいどれだけの時間が経ったかわからなかったけど、少年は静かに時を過ごすことが人一倍得意になっていた。
しかし、その代わりに少年は声のかけ方を忘れてしまった。
木々の隙間から見える公園の広場で、昔懐かしい顔ぶれが集まっていた。
今日は鬼ごっこをしているらしい。
久々のみんなの姿に少年の心は昂ったが、どうしても足が動かなかった。
声をかけるのが恐かった。
もしかしたらみんな自分のことなんて忘れているかもしれない。
もしかしたら自分の声は誰にも届かないかもしれない。
そう思うと、目の前に見える広場がひどく遠くにあるように感じた。こぶしを強く握りしめ、歯を食いしばりながら、なんとか足を前に出そうとしたが、身体が全然言うことを聞かない。
「あれ? なんでいるの?」
突然放たれた声。
聞きなれた声。
後ろを振り返ってみると、彼女はきょとんとした顔をして少年を見ていた。
少年は驚いた。僕のことを見ている。
頭が真っ白になった少年は、かつての友人だった彼女を置いて、そこから逃げ出してしまった。
「えっ、ねぇ! 待ってよ!」
明らかに自分に対して発せられている声。なんだかそれが信じられなくて、少年はとにかく走った。
だけど、どんなに走っても彼女は追いかけてくる。
とにかく走って、やっといなくなったかと思ったら、何も考えずにとにかく走っていたせいでいつの間にか行き止まりになっていた。
彼女は汗だくになりながら、そして声も出ないくらい息を切らしながらも追いついてきた。
しばらく二人で、膝に手をつきながら呼吸を整えていたが、彼女はちょっと怒った顔で言った。
「ねぇ! なんで逃げるの?」
「だって追いかけられたんだもん」
いや、あんたが先に逃げたんでしょ、と言いながら彼女は笑っていた。
その笑顔を見て、少年は心が一気に晴れたような気分になった。
…………
帰り道、少年は考えていた。
「なんで自分は逃げたんだろう」
その理由が当時の少年にはわからなかったけど、今自分がいろんなことから逃げているのだなということには気が付いた。
そして、逃げなくてもいい、ということにも。
彼女にとっては些細な言葉だったのだろうけど、少年にとってはそんな言葉がとても大きな勇気になった。
次の日、久々に少年は学校で言葉を発した。
驚いたみんなの顔、今でも鮮明に思い出せる。
言葉を失った少年は、言葉に救われた。
彼女は今どこにいるかわからないけど、そんな彼女にこの感謝が伝わるように。
そう思いながら僕は筆を取った。
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