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生きるという地獄

Twitterを見ていると人は様々な幸せを獲得しつつも、いろんな地獄の中で生きてるのだなと気づかされる。
Twitterという既にオワコン化しつつある?魔の巣窟に今もなお拠り所であり捌け口として居続ける我がフォロワーたちがみんなしんどそうに見える。何かかけてあげられる言葉もほとんどない。今のところ私自身はボロボロにならずに済んでいる。
プレッシャーやらに押しつぶされそうになることもなく、どうにかなるっしょ!と能天気に生きている。
しかし、地獄の中でもがき続けて明日を迎えるのが嫌だと、心の叫びをTwitterという沼に投下してる人たちを見ていると、決して他人事ではなく、心のどこかで明日は我が身かもしれないと思う。

この前、ふとTwitterを見ていると、我がフォロワーたちが地獄の嘆きがあっちでもこっちでもあがっていてなんだこの地獄は…と思ったので、目に留まったいくつかをピックアップ。
※特定されないために出典元の明記は避けています。


私と先輩はまだゴリゴリに仕事してるのに全部押付けたポンコツ上司だけ先に退勤してるの笑うしうしかない
Twitter

部下に投げるだけ投げてフォローもせずに退勤した上司への不満だと思われる。ここで言われている上司が管理職なのかどうかは分からないが、上司たるもの部下のフォローまでするのが務めじゃないの?という前提が伺える。しかし、"ポンコツ上司"と呼んでいることからもう諦めているのか、「こいつはそういうやつだから」みたいな呆れが見え隠れしている。



見た目これ以上醜くならずにストレス発散できる方法がもう買い物しかないから永遠に買い物してしてるけど誰か止めてほしい
Twitter

ストレスが溜まると食欲が高まって食べ過ぎて太ってしまうから、食べずに物欲の高まりに従うことでどうにか自己を保っている。"もう買い物しかない"と言っていることからもあれこれ試してきた結果行き着いたのが買い物なのだろう。
この人は一時期妹のように面倒を見ていた人なのでとても心配である。心配ではあるものの、すっかりやりとりも関係性もなくなってしまった今の私がかけてあげられる言葉はない。



自分の倍くらいのお給料をもらってるおじさんんんとおばさんの仕事とメンタルの面倒見て、ミスしたらでっかい声で嫌味や悪口言われて、社会ってそういうもんだよ、マシだよって言われてもそんなの絶望にしかならない
Twitter

いろんなものが織り交ざっている。上の世代による自分たち基準の価値観を下の世代に押し付けているのが伺える。上の世代の当たり前と下の世代の当たり前は違うんだけど、下の世代が上の世代に言えることはなくてただただ耐えるしかない。どうにかこうにか耐え続けているのに追い討ちは止まらない。もし本当にミスに対して嫌味や悪口に耐え続けることが"社会ってそういうもん”だとしたら生き続けていくことが絶望にしかならない。
詳細は分からないけど、年長者は「自分たちがそうだったから」と年少者にも同じものを押しつけるきらいがあると思う。「私たちが苦労してきたのだから、若者も苦労しなさい」みたいな考えが「若いうちの苦労は買ってでもしろ」という言葉に色濃く表れている。

今の若年層も年長者たちにはない苦労があるし、苦悩がある。時代が変化すれば社会の前提となる環境も変化するので、問題となることも異なる。それは苦労をする事柄も変わることを意味する。しかし、社会がどう変化しているのかという部分は意外と無視されがちで、自分たちが若い頃どうだったかにばかり目がいきがちだ。それを基準に下の世代に対してアドバイス?をしているつもりになるのは時代錯誤的なものも少なくなく、なんとも滑稽だなと思う。
あらゆることをスマホでやるのが当たり前なのに、ガラケーの使い方を必死に教えて来られるような感じ。


彼氏を信じきれない自分がいて惨めで泣けてくる
Twitter

これに関しては詳細は全く分からないけど、眺めてた中で目に留まった。意外と同じような気持ちを抱いてる人がいそうでピックアップ。
信じたい気持ちはあれど、何かしらの理由があって信じてあげられない。必死に頑張ってくれている。向き合おうとしてくれているというのは理解できるけど、それを信じてあげられない自分の中に罪悪感のようなものが芽生えてきて惨めさも湧き出てきているのではないかと推察する。
相手はいい人なんだけど、何か物足りなさがあったり、悪い人ではないけどなぜか信用に足らないところがあったりするのだと思う。
私も以前付き合っていた相手に対して信用しきれない部分があった。別れてから話したけど、信用しきれないところがあるのはバレていた。更に後々に分かったことだけど、私の疑念は間違えておらず、やはり思った通り…(そうあってほしくなかった)。
何かしらの理由で相手に対して信用を置けないことって意外とあるよね。


みんな仕事にしろ、プライベートにしろ、人間関係で悩みを抱えているようだ。たまに会う友人や相談してきてくれる友人と言葉を交わしていてもそう思う。自分のことは自分でどうにかこうにかできるけど、他者が介在することによって自分の力の及ばない範囲が生まれ、自分ではどうにもできないけど、モヤモヤは晴れないという負の連鎖。まさに地獄。
どこかで割り切るとか、諦めるとか、折り合いをつけていかなくてはいけないのかもしれないけど、それができたら…というやつだね。


私も先のことを考えると悩ましいな。いざその時になったらどういう選択をとるかなぁ。悩ましいなぁと思うことがある。
※追記:この後に文章書いていていたら止まらなくなって私自身の悩みやその根源に関する話にも至ってだいぶ長くなった。

最近、ピーチフルさんのラジオをよく聴いている。

ピーチフルさんが出産前後に産休や育休を取得していて、ピーチフルさんの配偶者の方も出産後一緒に半年間育休を取得したらしい。(上に挙げた回でそこまでの話をしていたかどうか忘れたw)
あ、多分これ。

やはり男性の育休取得は大事だよなあとこの回を聴いて改めて思った(記憶がある)。私が今務めている会社でも育休取得は可能だが、半年間も取得できるのか。
特に今の部署は中々休みにくい風潮があるようだ。法律で決められた有給休暇1年に5日以上取得も「なんかうーん。5日も取れるかなあ。まあ取るけど」みたいな雰囲気がある。なにせ、人員が不足していて私の異動と入替で何人か優秀な人が抜けたらしいし、5月いっぱいで2人退職した。(在宅勤務が多くて私含めて出社する人が少ないので詳しく知らない)
抜けた人が担当していたところを誰が担うかだとかも大変。一部は私にも回ってきた。
異動してきた私に対する期待も小さくはないようで、「若い人から辞めていって残るのはおっさんばかりやねん。○○さんは辞めないでね」と言われた。
数年後には私が一人前として活躍することを期待されているようだ。しかし、数年後には私にも色々な変化が起こっているだろう。今のように仕事の優先順位が高いまま維持し続けられるかどうかはわからない。
人員が少ない部署で私は私が思い描くライフプランを遂行できるのか…みたいなことを、先ほど紹介したピーチフルさんのラジオを聴いていると定期的に思う。
結婚や出産、育児などの人生のフェーズが変化していった時に、組織が協力的なのかどうか、自分の希望に沿う制度や仕組みが整っているのか。
今の部署で前例があるのか分からないが、人数を見る限りでは育休を半年間も取得なんて出来なさそうだなと思ってしまう。もし、そういうフェーズになったら無理矢理でも押し通して取得するのか、休職するのか、変わり目にあやかって退職して転職するのか。
今のところ直近でライフステージが変わる予定はないのだけれど、もしその時が来たらどうしよう?今の会社で大丈夫だろうか?と悩んでしまう。
あと、今の会社は副業禁止なのだけれど、後々のことを考えたり、私の志向を考慮すると副業解禁されないのはきついなあ。ずっと居続けることはできないなあと思ってしまう。(数年以内に解禁されたり、見込が見えれば話は別。)
「自分の身は自分で守る」ではないけれど、組織にぶら下がっていれば安心!という時代でもないし、「定年」というものをライフプランに入れていない私は一生働き続けて稼ぎ続けていこうと思っている。そうなると、スキルアップというか、自分をアップデートし続けることから逃れることはできない。アップデートし続けるためには複数の場で働いてシナジーを生み出していくのが良い。これは私が学生時代に3カ所で働いていた経験がベースとなっており、実体験をもって複数カ所での就業を推奨したい。
複数カ所での経験が相互作用することもあるし、収入源が複数あることで得られる安心感がある。1つ駄目でも条件に合わなければ身を引いてまた新しい収入源を作ればいいやと思える。要は「つぶしが利く」というやつだ。
そういうことを考えていると今の会社に居続けていていいのかなと考えてしまう。すぐにどうこうではないし、未来の話でまだ起こっていないことなので、どれだけ考えていても明確な答えは出ないと思う。(すぐに結論を出そうとも思ってはいない。)
だからといって全くの無関心でいいとは思っていなくて、いつか自分事になるかもしれない。明日は我が身として考えておくべき問題だと思っている。
私がここまで考えて言い切っているのは、一時期本当に自分事として考え込んでいた時期があったからだ。

突貫工事で作り上げた建造物が不安定なように、いざその時になって急に向き合い始めて考え始めても時すでに遅し。
すぐに当事者になるわけではなくても、自分が当事者になったらどうするだろう?と日々少しずつ考えておく必要があると思っている。そうすると、自分にとって何が大事で、何が大事ではないのかが見えてくる。自分にとっての優先順位が見えてくる。見えてきた優先順位によって、自分にとって合うか合わないかといった人を選ぶことができる。
この積み上げによって、「結婚するなら○○は譲れない」などの自分のこだわり?が形成される。そして、自分の中で譲れないものを他者に分かりやすく説明できるようになってはじめて対話が成り立つと思う。
「私と結婚したいと思ってくれるのであれば、△△は譲れないのだけど、許容できる?」
みたいに建設的な議論に進んでいける気がしている。現代は恋愛の延長線上に結婚することが大半だが、結婚というのは恋愛という感情の延長線上に結婚があるわけではなく、あくまで法的な契約に基づく話だ。(未婚の私が語り散らかすのはおかしな話かもしれないが…)結婚は論理的な話の上での合意形成が重要になってくるのではないか。家庭という名の共同経営者になるようなものなので、経営会議的な方針決定をきちんと合理的且つ論理的に話せることが穏和に運営していくためには必要な事項だと思っている。

なぜ、論理的な議論をして合意形成することを重要視しているかというと、従来の男尊女卑的価値観を前提とした婚姻に批判意識がある。

これには私が育ってきた家族環境の影響も大きく関係している。
私の母親は義実家(私にとって父方の祖父母)から結婚当初から色々干渉を受けてきたらしい。私の両親は結婚当初、父方の祖父母の家の隣に住んでいた。なので、私が幼い頃は家の隣に祖父母が住んでいた。よく遊び相手になってもらった記憶もある。
私が小学校低学年の頃に引っ越し、後々祖父母も別のところへ引っ越し、今は元居たところに誰も住んでいない。
大人になって、いろんな話が通じる人間になったと見なされたのか、他に話せる先がなかったのか、随分前に実家に帰った時に昔の話を聞かされたことがある。
(翌日も予定あるのに朝まで話に付き合わされた。今となっては良き思い出?)
その時に、私が幼い頃、母親がどれだけ祖父母から干渉を受けて精神をすり減らしていたのかを知った。(だからと言って全てを許せるわけではないが…)所謂、三歳児神話的な話や、ミルクではなく母乳でなければならないなどの未だに根深い昔ながらの(科学的には無根拠な)価値観押しつけ問題の被害者の1人だった。それだけでなく、母親がマニキュアを塗っていると「そんなもの塗って爪が死ぬでしょ!」と個々人の自由なお洒落に対しても文句をつけてくる有り様だった。祖母も40代で祖母になった身なので、更年期やらなんやらあったのかもしれないが、言われた方はたまったもんじゃないだろう。祖父も母親に対して「お前は子どもを育てるために結婚したんじゃないのか?」的な昔どっかの政治家が言った女は子どもを育てるための装置的発言。書きながら世代の闇を感じる。
今となっては祖父に関してはだいぶ丸くなったなと思うものの、祖母に関しては未だに変わらない。自分の見えてる範囲が絶対で、自分が知らないものに対しては批判的だったりする。世話焼きと言えば聞こえはいいかもしれないが、言われた側はなんでそんなことを言われなきゃいけないの?となる。ただ、祖母の厄介なところは悪意がない所で、本人の為を思ってあれこれ言っているところにある。
以下に紹介しているピーチフルさんのラジオを聴いていたら、義実家問題を思い出した。


そんなこんなで、母親が母親にとっての義実家(=私にとっての祖父母)からあらゆる攻撃を受け、精神的におかしくなってしまった。一時期鬱病の症状に苦しんでいた時もあったらしい。
私が幼く、母親は義実家からの干渉を受けまくっていた頃、父親はどうしていたかというと、祖父が創業した会社で働くことになり、役員にさせられて残業代がつかないのにすごい働かされていた。
とにかく稼いで来るので必死だったそうだ。後々聞くと私が幼い頃は会社に借金があって大変な時期でもあったらしい。とにかくがむしゃらに働いていたので、私が学校へ行く時には寝ていたし、私が寝る頃にまだ父は家に帰ってきていなかった。なので、私が幼い頃に父親と遊んだ記憶はあまりない。(父親はそのことに関して後悔しているらしい)
脱線しつつ、前置きが長くなったが、ワンオペ育児家庭で幼少期の私は育てられた。
母親は私も含めた弟妹達の年齢がある程度に達するまでは専業主婦だったし、外に出て働くようになっても扶養から外れない(103万円の壁だっけ?)範囲内で働いていた。なので、自由に使えるお金が沢山あったわけでもなく、貯金もないので父親の収入に依存して生きていくしかない状況だった。
(今年から正社員として働き始めたと風の噂で聞いた)
専業主婦でも、扶養を外れない範囲のパートタイマーでも、私からは自律的ではないと見えた。
離婚したいと思っても、収入的依存が足枷になって離婚に踏み切れなくなるし、精神を擦り減らして生きていくのは健全ではない。そんな状況下で生きていることは豊かな生活、豊かな人生とは決して言えないと思っている。
なので、互いに自立して相互でも、どちらか一方でも経済的に依存しない関係が理想的ではないか。

父親の収入に依存して生きている母親も、母親からの依存によって苦しむ父親もどちらもきつそうで私はこうはなりたくないなと強く思った。

余談だが、母親が勝手にお金を使い込む事案も後々発覚している。ここ数年内ではそこに妹も加わっている。使い込みはするものの、当人たちに支払い能力がないため、父親が立て替えている(多分今も定期的に発生している事案)。父親の立替資金が一時期欠乏して私が父にお金を貸すことで母親と妹の使いすぎを補填したこともある(父親からは後々きっちり返済された)。

収入的に自立し合っていないのも嫌だし、旧来の価値観に沿って「男性は働いてさえいればいい」みたいなことをしていたくはない。
育児に関われなかった父親の後悔した姿を見ているのもあるし、何もインストールされていないふにゃふにゃな生命体がいろんなものを自らにインストールして世界を認識して自我と世界の間で生きていくようになっていく様を見てみたいという興味もある。それに育児にはお金もかかる。我が子という名の生命体に課金しているのだから、その育児を楽しまないのは孫のようにすら思える。コミットしないということは、アリーナチケットを取ったとにライブに行かないようなものだ。

忙しい日々の中で過ぎ去っていく時間に成長していって消えてしまう子どもの姿もなかなかに思い出せないなぁ,と思いながら過ぎた時間の不可逆性の中で足踏みして感傷に浸るのは大人の悪いクセだ.そうだ,今よりもっと小さい頃の君の姿を思い出せるのはデジタルデータを眺めているときだけだ.たくさん動画も写真も撮ったけれど,その姿に触れることができるのは今の時空間だけなのだ
https://note.com/ochyai/n/nc96b27169e17

上記の落合陽一さんの記事に書いてあるような変化を見てみたいなと思っている。落合陽一さんはメタメタに多忙な人なので、実際のところはワンオペ育児化しているんじゃないかなと思いつつも、たまにnoteに記す息子さんとの話を見て私も親になったら子どもの変化や子どもが幼児期健忘によって自身でも忘れてしまうことを見逃さないように覚えていたいなと思う。
だからこそ、育児に関わりたい(この発言が当たり前でない時点で終わってるんだよなぁ)。
「自分が親にしてもらえなかったことを子どもにしてあげたい」みたいなベタな話なのかもしれない。
ただ一つ言いたいのは、育メンなどの流行りに乗るような気持ちはない。自分の子どもなのでちゃんと向き合い育てていきたいと純粋に思っているだけだ。
きちんと向き合いたいし、「子育ては母親の役目だろ」なんてことを言って時代遅れなオワコンと化して後手に回りたくもない。
だから、子どもを育てるということに関われる仕組みをどうすれば構築できるのか。みたいなことに対してよく思索を巡らせる。(ここで言う仕組みは社会システムだとかそんな大それた話ではなく、あくまで私に関わる部分に関してである。)
そのためには何が必要なのか、何が不要なのか、何が譲れないことなのかをよく考える。
収入、就業環境、幼稚園や保育園などの育児環境、女性の身体、女性の就業環境etc…
この辺のことは定期的に考えているし、日々情報収集もしている。
たまに、女友達なんかにこの辺りの話をすると「ちゃんと考えていてえらいね」みたいなことを言われるけど、これが偉いと尊ばれる社会はまだまだなのだなとひしひしと感じている。所謂男尊女卑的な価値観がまだまだ残存しているし、意思決定層がその世代の人たちなのもあって、スタンダードになっていくのはあと10~15年くらいかかるんだろうなあと思っている。だが、社会が変わるのを待っていても自分は確実に年齢を重ねて老いていく。焦っても仕方のないことだけども、今の自分事にはなり得ないからといって、知らんぷりをして、見て見ぬふりをする無関心ぶりを発揮することはできない。

ここまで語り散らかしつつ、私は直接子どもを産み落とすこともできないし、相手がいて成り立つものなので当たり前のものとして話を進められるわけではない。
「まずは相手を確定させるところからだろう。」と言われれば、返す言葉がない。しかし、相手とのすり合わせをしていく時にこちらから提示できる引き出しを予め増やしておくに越したことはない。

ちゃんと考えておかないと、地盤がないままノリや勢いで進んでしまって、生まれてくる子に罪はないのに、苦労をかけたり罪悪感を背負わせてしまうことにもつながる。
共同でやっていけるという仕組みと合意形成が必要なのだ。

私はこんなふうにのんきだと思われるようなことを言っているのかもしれないが、私と同年代の女性であれば徐々に年齢的な焦りを感じ始める時期だったりする。(生物学的観点での結婚適齢期はわかるが、世間体的な意味での結婚適齢期は無視していいのでは?と思っている)
焦りが高まったからなのかは知らないがこんなこともあるらしい。

女の子こわい!!!!
プロポーズさせるように仕向けたとかなに!!!!
その生活永遠に続く??????????????
仕向けられた男の子、その覚悟した??????????
Twitter

うーん。怖い。ゾッとした。仕向けられるってなんや。
中高生くらいの告白させるように仕向けた!みたいなのと同じノリに聞こえてきちゃって怖い。私が姉さんと慕っていた人物のツイートなのだが、この人の言う通り、持続性があるのか疑わしくなる。結婚をすることで手にしたいのは持続的な2人での生活なのか、結婚をして「既婚者」という称号や"結婚をした"という事実を獲得したいのか。仕向けてまでしたい結婚を通して何を獲得したいのか疑問である。

仕事でも結婚でも育児でもなんでも、一人一人何かしらの不満や不安、時には苦痛がある。それを私は地獄と表現している。
そんな地獄ですらもせっかくFPP視点で生きているのだから向き合って、闘って、時には逃げてサバイバルしないと人生というゲーム参加者として損をしているんじゃないか。
そんなふうに思うのです。

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