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『怪と鬱』日記」 2022年2月20日(日) あるファンからのメール──愚狂人レポート(完)

クラブ「トキシック」は渋谷の外れにある雑居ビルの地下に入居していました。

全国のあちらこちらにある大小のライブハウスには詳しいつもりですが、クラブにはほとんど知識がなく、玲香と付き合っていると「こんな所にクラブがあったのか」と驚かされることがままあります。
その雑居ビルの壁には、スナックなのかブティックなのか、はたまたバーなのか判断し難い、「ナーバス」「ミートボール」「ルピナス」と書かれた看板が貼られてあり、何ともいえない場末ならではの不健全な雰囲気が立ち込めていました。

狭いエレベータで降り、地下の廊下唯一の黒い扉を開けるとそこが「トキシック」です。
想像以上に広いフロアには既に百人余りのパーティ参加者がいました。半分以上はコスプレをしていて、残りの半分はラフな格好です。誰もがグラスを手に、ダンサブルな電子音楽に合わせて体を揺らしたり、お喋りをしたりしていました。
会話がしやすいように配慮したのか音楽の音量はそこそこに控えめで、常時フロア全体が明るく、ただ酒を飲んで踊ることが目的のクラブイベントではないようです。
誰にチケットを渡せばいいのか分からずにフロアを見回していると、カウンターに座っていたボンベさんが近づいてきました。

「ああ、ちはるさん。どうもどうも」
「ボンベさん、お疲れ様です。これ、チケットはどうしたいいんですかね? モギリがいなかったんですけど」
「そのままカウンターに出せばワンドリンクもらえるから、それでいいんじゃないかな。玲香ちゃんにはもう会いました?」
「いえ。今来たばっかりで。A子ももういるんですか?」
「いるいる。めちゃくちゃ調子に乗ってるから見てきなよ。相変わらず最悪だから。今日はA子の酒、全部が玲香ちゃんのツケになってるんだよ。あのおばさん、もうめちゃくちゃに酔っ払ってるから。マジで凄いよ。最悪」

ボンベさんはそう言いながら顎をフロアの隅に向けました。
見るとそこには長ソファが幾つか置かれてあり、玲香とA子が座っていました。ソファの近くには二人を囲むように五人ほどの男性が立っています。
私は二人と合流するのはかけつけ一杯を飲み干してからにしようと思い、ボンベさんとカウンターにいることにしました。

「ボンベさんはもう酔ってるんですか?」
「俺さ……飲めないのよ。酒飲んだら身体が痒くなんの。アレルギーで」
「あ。そういえばそんなこと前に言ってましたね。一滴も無理なんですか?」
「無理無理。だからずっと烏龍茶。飽きてきたから、そろそろジャスミンティーに切り替えようと思う。ほんとはフレッシュジュースとか飲みたいんだけど、ないからな」

そんな会話をしながらも、私はカウンターから三メートルほど離れたA子に目が釘つけになっていました。
A子は男性達を上目遣いで見詰めたり、必要以上に笑顔を作って首がもげそうなほど頷いたり、かと思えば大袈裟に両手を振り回しながら顔を歪ませて何事かを叫んで一人で爆笑したりと、遠目に見てもかなり愉快な様子でした。
今日のA子はクリーム色のシャツを着ていて、どういう経緯か胸のボタンがほとんど外れており、黒い大きなブラジャーが丸見えになっています。
今日のパーティ参加者は露出が多いコスプレイヤー多く、A子の過度な露出に違和感はないはずなのですが、A子の傍を華麗なコスプレイヤーが通るたびに、明らかに場違いな色情おばさんが一人いるという構図がはっきりしてしまい、失笑を禁じ得ません。
忙しく顔面と手足を動かして間違ったセックスアピールをするA子に対して、聴衆は腹を抱えて笑い、時々男同士て目配せをして「こいつ、やばい」と伝え合っていました。玲香もまた、いつものA子節に満足げな様子です。
相変わらずA子だけが何も分かっていない。
彼女はとにかく何も分かっていないまま、こうやって人に笑われたり、不愉快な思いを抱かせたりするのです。

「ちはるさん、あいつまだ半裸なの?」
ボンベさんが顔を歪めて訊ねてきました。
「ええ。ブラが見えてますね」
「なんだよあいつ……気持ち悪い……俺、あそこと一緒にいたんだけど、男の客が集まりだしたらA子が急にシャツのボタンを自分で外しだしてさ。俺、あんまりにもグロテスクで吐きそうになったから、こうやってカウンターに逃げてきたんだよ。あのキチガイ、今すぐ死んでくれないかなあ」
「今、イケメンに囲まれて大忙しみたいですね。あ、今上目遣いしながら膨れ顔しましたよ。水死体みたいです」
私がA子の様子をボンベさんに報告すると、ボンベさんは「うぐっ」と言って口を押えました。
「危ねぇ……マジでひと口ゲロが出ちゃった」

トキシックはほとんど真四角なフロアの真ん中にこのカウンターブースがある他は、点々と壁際に置かれたパイプ椅子とソファ、ささやかなステージの上にあるDJブースで成り立っているようでした。
有名なクラブと比べるとかなり見すぼらしいハコですが、今夜はそれを感じさせない盛り上がりがあります。気楽に、各々が好きな格好で場を楽しむパーティー。
一時間も経てば新しい友人が五人は増えていそうな雰囲気が、会場に満ちていました。
とはいえ、私はパーティのそうした雰囲気は気に入ったものの、どうにもA子たちと合流することに気が乗らないまま、ボンベさんとカウンターでドリンクを飲むばかりでした。せっかくA子を楽しんでいる玲香に気乗りしない自分が水を差すのも野暮です。少し疲れているせいでしょうか。遠目からはしゃぐA子の様子を見るだに、あそこに今混じると私はきっと嫌な気分になるのだろうな、と分かります。疲れている時は、A子は胃に重いのです。

不意に店内の音楽がダンサブルなものから一転して、ブルーズに変わりました。
見ると、さっきまでDJブースにいた銀髪の男性の姿はなく、代わってキャップを被る痩せた中年男性がターンテーブルの前にいました。
「俺はこっちの方が好きだなあ。最近、またギター始めたんだよ。ちはるさん、今度セッションしようよ。結構上手くなったから」
「ボンベさん、ブルーズ好きなんですよね。でも、このDJ、よくこんな曲かけましたね」
「ほんとだよね。これ、『悪い星の下に生まれて』って曲ですよ。普通、こんなとこでかけないでしょ」
深いリバーブがかかったバンド演奏とねちっこいギターソロが特徴的なブルーズでした。
そして、その大音量の悪魔的なアンサンブルが終わった後も、数曲続けて重いブルーズが会場に響き、ほとんどの参加者が踊るのを止め、めいめいの輪を作り談笑をするばかりになりました。
すっかり渋いバーのような装いとなっていましたが、それでもパーティ自体は活気を失っていません。誰もが楽しそうに見えます。
私はまたボンベさんとジントニックが入ったグラスをだらだらと傾け続け、気が付くと中々に酔っ払ってしまいました。
その頃には、会場に来て何時間が経過したかも分かりませんでした。
「あ……A子が何かしてますよ……」
私はフロアにいる人を掻き分けてDJの元に向かおうとするA子を指差して、ボンベさんに言いました。
「あいつ、なんだあの顔……」
ボンベさんが唖然としながら、そう言いました。
A子も私同様にかなりのアルコールを摂ったのでしょう。
顔は真っ赤で、すっかり上目遣いが癖になってしまったのかずっと黒目が眼球の上方に位置したままです。さらに、いつの間にかシャツとズボンを脱いでおり、現在のA子は黒のブラとタイツ、変な顔で構成されていました。
全体的にたるんだ身体が、昔何かのムックで見た、名前を覚えていない妖怪を思わせます。
A子がDJに顔を近づけて何事かを告げると、DJは口を尖らせながら頭を掻き、面倒臭そうに何度か頷きました。
私はボンベさんと目を細めながらその様子を眺め、これから何が起きるのだろうかとぼんやり思いました。
A子はニヤニヤしながら、DJの傍をうろうろしています。

そして、それまでのダウンテンポなブルーズの雰囲気をかき消すように、十六ビートで軽快なエレキギターのリフが鳴らされました。
そのイントロはビートルズの「ロックンロール・ミュージック」のものでした。
「ボンベさん、A子はどうやらリクエストしたみたいですね」
A子は曲がかかったことに興奮したのか「ヒャッホー!」と雄叫びをあげ、首を激しく振っています。
「うわっ! きっつ!」
ボンベさんが顔を顰めて言いました。
A子は腕を振り回し、地団駄を踏むようにリズムを取り、めいっぱいにはしゃいでいます。
そして、A子の動きは段々と規則性を帯びだし、最終的には両肘を曲げた状態で片足を擦る、完全なるツイストとなりました。
延々と、延々とA子のツイストがロボットのように続きます。

真っ赤な顔で。
ずっと上を向いたままの黒目で。
黒のブラとタイツのみで。
ずんぐりむっくりとした体型で。
どこからどう見ても中年といった風体で。
重たい黒髪で。
ニヤニヤしながら全力でツイストを踊っているのです。

周囲の視線が徐々にA子に集まっていきました。
魔に当てられたように、A子ににじり寄る人たちもいます。
会場で交わされていた数多の会話がピタリと止まり、誰もがA子のツイストに目を奪われだしました。
そのように注目を集めていることを知ってか知らずか、A子はまるでここがツイスト世界大会の決勝であるかのように、一心不乱で身体を動かし続けていました。
ボンベさんはスマホを掲げ、そのツイストを動画撮影していました。

私はツイストをじっと見ながらA子と初めて会った日のことを思い出していました。
ステージ上で、まるで演目さながらにチケットノルマを払っていないことを店長になじられたA子。
私はそのあまりにくだらない姿を見て深い感動を覚えたことをきっかけに、A子と交流を持ったのです。
今のA子も同様の感動を私に与えています。
恐らく会場の誰もが、完璧に社会から逸脱した今のA子の姿に、言葉にならない感動を覚えていることでしょう。

逸脱。
狂気。
徹底的なくだらなさ。

絶対にこうはなりたくない。
こんな姿になる奴の気がしれない。
でも、現実にこのようにする人間が、今ここにいる。

A子はついには長い舌を口からはみ出させ、下品にそれをベロベロと上下させながら踊りさえしています。

酷すぎる。
酷すぎて、目が離せない。

ビートルズという世界レベルのアーティストが脇役となり、この化け物を踊らせている。
突如、会場の一角に見せ物小屋が現れた。
グランギニョール。
秘密の隔離病棟。
見てはいけないものを見せられている。
そんな気持ちに胸が躍る自分がいます。

チャチャチャ

曲が止まると同時にA子も動きを止め、会場はしんと静まり返りました。

誰かが恐る恐る小さな拍手をしだすと、次第に拍手は大きくなり最後には盛大な歓声がA子に送られました。
私はすっかり「本物」が場を掌握する様を見せつけられた気分になっていました。
A子は想像以上に泥酔しているようで、拍手に対するリアクションといえば、仁王立ちしたまままだ舌をベロベロし続けることのみでした。

「けむしぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!!!  だいみょうじんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇすっ!!!!!!!!!」

満場の拍手よりも大きな声がフロアに響きました。

叫んでいるのは甲冑を着た武者のコスプレをしつつも顔には一切の装飾もない、いかにもごく普通のサラリーマンといった具合のメガネをかけた中年の男でした。

「毛虫ぃぃぃぃぃ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!  大明神でぇぇぇぇぇぇぇす!!!!!!!!!!!!!!」

A子に走り寄った男は、また叫びながら刀を上げ一気に振り下ろしました。

一瞬のことでした。

刀の刃がA子の肩ごと、右腕を切り落としました。

「ぎゃああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

A子の悲鳴が皆の耳をつんざきました。

ボトリとA子の身体の一部が床に落ち、A子本体から水芸のように血が噴出しました。

「毛虫大明神」

その名前がSNSでA子に妙なリプライを送っていたアカウントと同じものだと気がついたのは、A子が泡を吹いて倒れた直後でした。

毛虫大明神はまた刀を上げ、今にもA子にトドメをさそうとしています。

この瞬間、私は「さよなら、A子」と妙に冷静に心の中で別れを告げていました。
なぜなら、ツイストを含めた一連が予想もしなかった事態であったにも関わらず、私は「これはこれで必然的なものである」かのような説得力を場に感じていたからです。
「あいつが死んでも別に困らないしな」と考える余裕すらありました。

死の刃がA子に振り下ろされる直前。
恐ろしいスピードで二人に駆け寄った玲香による、カンフー映画さながらのハイキックが毛虫大明神の喉元にクリーンヒットしました。
毛虫大明神は「くはぁっ!」と喘ぎながらそのまま後ろに倒れました。
瞬く間に毛虫大明神は参加者の男達に取り押さえられ、殴ったり蹴られたりと好きなように暴行を加えられました。

「今から警察呼ぶから! クスリやっている人たちはすぐ逃げて!」

玲香が大声でそう言いました。

「玲香は!?」

参加者の中の誰かがそう返しました。

「あたしは早い時間にシャブ一発決めただけだから! 多分、大丈夫!」

玲香は毅然とした口調でそう返しました。
私はこの言葉でようやく緊張が解け、玲香の進言の通りそそくさと会場を去る大勢の参加者を尻目に、床に寝転んだままガタガタと痙攣するA子に歩み寄りました。

「あっ。ちはるさん、お疲れ様です」
玲香は場違いな挨拶を私に言いました。
「玲香……」

血まみれで卒倒するA子はまだ上目遣いで、もう人間の体をなしていないフォルムでそこにいました。
痙攣しながら蟹のように泡を吹くA子は、どこかコミカルです。

肉の塊。
無意味な肉の塊だわ、これ。
さっきまで、馬鹿みたいにツイスト踊ってたのに。

私は、プッと思わず吹き出してから先、もうすっかり我慢できず、大きな笑い声をあげてしまいました。
玲香も私の突然の爆笑に少し驚いてから、一緒に笑いました。

ほどなくして警察と救急車が来ました。
担架に乗せられる時も、まだA子は痙攣していました。
玲香が「ああ、あんだけ身体動くとなんか元気そうに見えますね。死なないんじゃないかな」と首を傾げながら言いました。

ボンベさんはツイストから警察が来るまでの一部始終をスマホで撮影していたため、毛虫大明神の現場での凶行についての警察による取り調べはいたって簡素なもので終わりました。
後に聞く所によると、毛虫大明神は建設会社勤めの独身男性で、A子から相手にされないことを逆恨みして犯行に及んだとのことでした。
A子はこのパーティーに参加することを前々からSNSで発信していたのです。

一夜の狂乱。
そんなフレーズが今でも私の胸に生々しく残っています。

私と愚狂人A子の物語はこれで終わります。
これ以上、何もありません。

ここから先は、その後私が知人から聞いたことを混じえて書かせていただきます。
聞いた話が事実かどうかは知りません。

A子は玲香の見立て通り、結局は一命を取り留めました。
肩から斜めに切り落とされた部分はもうどうにもならないようで、その部分を欠損したまま長期入院したそうです。
どういうわけか「オメガ」店長が頻繁に見舞いに行き、献身的にA子の身の回りの世話をしたと聞きます。

パーティー以来、玲香とは疎遠になりました。
「シャブ」という言葉が私の気にかかっていたせいか、あまり積極的に連絡を取らなくなったのです。
まだ玲香が逮捕されたという話は聞きません。
きっと玲香らしく元気にやっていることでしょう。

ボンベさんとは時々、LINEで他愛のないやり取りをしています。
ギターの練習をしすぎて、腱鞘炎が癖になったとのことです。

私は、あのパーティーの夜以来、ある夢を時々見るようになりました。

夢の中で私は子供です。
母親がどこかにいってしまい、一人で荒地を彷徨う小さな女の子です。

枯れ木が点々と立ち並ぶ荒地を歩いていると、どこからか血の臭いがしてきます。

私は臭いの元はどこだろうかと考えながら、ひたすらに歩きます。

そして、転びます。
ああ、転んでしまった、と思った矢先に、血の臭いが濃くなります。
そして、顔を上げると目の前に歪な肉の塊が立っているのです。

肉の塊は私に手のようなものを差し伸べます。

私はその手を掴むべきかどうか悩みます。
そして、そうやって悩んだまま目が覚めるのです。

結局、A子が私にもたらしたものはこの悪夢です。

濃密なくだらない時間。
なんら学びのない経験。
不毛な出会いと別れ。
悪夢。

愚狂人には。
愚狂人には勝てないのです。

長文のメールになりました。

近々、ミュージシャンを辞めて地元北海道で酪農の道に進もうかと考えています。
夫は最近、浮気をしているようです。

高田さん、人間とは一体なんなのでしょうか?

本当になんなのでしょうか?


Idio-Crazy  Report

Fin

エンディングテーマ Joy Division"Atmosphere"


皆様からのサポートで私は「ああ、好きなことしてお金がもらえて楽しいな」と思えます。