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<ネタにできる古典(9)>宴の松原はガチ

 高校で読むことも多い『大鏡』の肝試し話です。

 花山院の御時に、五月下つ闇に、五月雨も過ぎて、いとおどろおどろしくかき垂れ雨の降る夜、帝、さうざうしとや思し召しけむ、殿上に出でさせおはしまして遊びおはしましけるに、人々、物語申しなどし給うて、昔恐ろしかりけることどもなどに申しなり給へるに、
「今宵こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるだに、気色おぼゆ。まして、もの離れたる所などいかならむ。さあらむ所に、一人往なむや。」と仰せられけるに、
「えまからじ。」とのみ申し給ひけるを、入道殿は、
「いづくなりとも、まかりなむ。」と申し給ひければ、さるところおはします帝にて、
「いと興あることなり。さらば行け。道隆は豊楽院、道兼は仁寿殿の塗籠、道長は大極殿へ行け。」と仰せられければ、よその君達は、便なきことをも奏してけるかなと思ふ。また、承らせ給へる殿ばらは、御気色変はりて、益なしと思したるに、入道殿は、つゆさる御気色もなくて、
「私の従者をば具し候はじ。この陣の吉上まれ、滝口まれ、一人を『昭慶門まで送れ。』と仰せ言賜べ。それより内には一人入り侍らむ。」と申し給へば、「証なきこと。」と仰せらるるに、「げに。」とて、御手箱に置かせ給へる小刀申して立ち給ひぬ。
 いま二所も、苦む苦むおのおのおはさうじぬ。
「子四つ。」と奏して、かく仰せられ議するほどに、丑にもなりにけむ。
「道隆は右衛門の陣より出でよ。道長は承明門より出でよ。」と、それをさへ分かたせ給へば、しかおはしましあへるに、中関白殿、陣まで念じておはしましたるに、宴の松原のほどに、そのものともなき声どもの聞こゆるに、術なくて帰り給ふ。粟田殿は、露台の外まで、わななくわななくおはしたるに、仁寿殿の東面の砌のほどに、軒とひとしき人のあるやうに見え給ひければ、ものもおぼえで、「身の候はばこそ、仰せ言も承らめ。」とて、おのおの立ち帰り参り給へれば、御扇をたたきて笑はせ給ふに、入道殿は、いと久しく見えさせ給はぬを、いかがと思し召すほどにぞ、いとさりげなく、ことにもあらずげにて、参らせ給へる。「いかにいかに。」と問はせ給へば、いとのどやかに、御刀に、削られたる物を取り具して奉らせ給ふに、
「こは何ぞ。」と仰せらるれば、
「ただにて帰り参りて侍らむは、証候ふまじきにより、高御座の南面の柱のもとを削りて候ふなり。」
と、つれなく申し給ふに、いとあさましく思し召さる。
 異殿たちの御気色は、いかにもなほ直らで、この殿のかくて参り給へるを、帝よりはじめ感じののしられ給へど、うらやましきにや、またいかなるにか、ものも言はでぞ候ひ給ひける。なほ疑はしく思し召されければ、つとめて、
「蔵人して、削り屑をつがはしてみよ。」
と仰せ言ありければ、持て行きて押しつけて見たうびけるに、つゆ違はざりけり。その削り跡は、いとけざやかにて侍めり。末の世にも、見る人はなほあさましきことにぞ申ししかし。

 長いのであらすじだけ。 
 ある雨夜のこと。清涼殿の殿上の間には若い貴族たちが集っていました。そのとき奇矯な振る舞いで知られる花山院(当時は天皇)は、肝試しを思い付きます。その時プレーヤーとして選ばれたのは道隆、道兼、道長の三兄弟。肝試しのコースは、清涼殿の外にあるそれぞれに割り当てられた建物まで行って帰ってくるというものでした。
 あっさりと出発する道長。ビビりながら出発する道隆と道兼。そして道隆と道兼はビビりのあまり途中で帰ってきます。笑い転げる花山院。しかし道長はなかなか帰ってきません。訝しんでいるうちにようやく帰ってきました。見ると、道長は長い時間行ってきたばかりでなく、行った証の木片まで持ち帰ってきたのでした。
 以上、カリスマ道長をヨイショするようなお話です。そしてこの話の中で道隆(中関白殿)が行きかかって何物かの気配を感じたのが「宴の松原」でした。この「宴の松原」はどうやら有名な心霊(恐怖)スポットであったらしく、ここを舞台とした怪談が『今昔物語集』巻第二十七於内裏松原鬼成人形喰女語第八に載ります。

 今は昔、小松天皇の御代に、武徳殿の松原を、若き女三人打ち群れて、内様へ行きけり。八月十七日の夜の事なれば、月極めて明し。
 而る間、松の木のもとに男一人出来たり。此の過ぐる女の中に一人を引へて、松の木の木陰にて、女の手を捕らへて物語しけり。今二人の女は、「今や物云ひ畢りて来る」と待ち立てりけるに、やや久しく見えず、物云ふ音もせざりければ、「いかなる事ぞ」と怪しく思ひて、二人の女寄りて見るに、女も男も无(な)し。「此はいずくへ行きにけるぞ」と思ひて、よく見れば、ただ女の足手ばかり離れて有り。二人の女此れを見て、驚きて走り逃げて、衛門の陣に寄りて、陣の人に此の由を告げければ、陣の人ども驚きて、其の所に行きて見ければ、凡そ骸散りたる事无くして、ただ手足のみ残りたり。其の時に人集まり来たりて、見ののしる事限りなし。「此れは鬼の、人の形と成りて此の女を食らひてけるなりけり」とぞ人云ひける。
 然れば女、然様に人離れたらむ所にて、知らざらむ男の呼ばはむをば、広量にて行くまじきなりけり。ゆめゆめ恐るべき事なりとなむ語り伝へたるとや。

 こちらは『日本三代実録』に原話があります。つまり正式の歴史書に掲載された猟奇的事件が説話化したものです。
 宴の松原、事故物件。
 そういう話を背負ったからこそ、道隆(中関白)は宴の松原に何らかの気配を感じたのでしょう。そしてきっと平安の読者たちは、その恐怖にある程度共感できていたのだと思います。
 平安内裏はなかなかホラーな世界です。

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