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私に起きた猫にまつわるちょっと不思議なお話 〜琥鉄堂の誕生から暗転〜

⑪琥鉄堂の誕生

手に職をつけると決意した私は、彫金を含むアクセサリー制作を学べる学校を選び、体験教室を受講したその日に入校を決めました。

そこは学校といっても法人ではなく、プロとして独立をも目指せる教室でした。なぜアクセサリー制作なのかはここでは省きますが、とにかく私史上最大とも言えるチャレンジでした。

初めの計画では、しばらくは貯金を崩せば問題もなく2年以上は通えるはずでした。
ですが、計算に入れ忘れていた交通費や授業で使う消耗品、道具一式の購入、そして家で作業するための机の購入などなど...予想を遥かに上回る勢いで貯金がみるみる減っていき、半年ほどで計画が行き詰まりました。

そのため、以降は週5で仕事、休日2日は学校、受講後に深夜にもう一つ仕事をするという今考えてもかなり無謀な生活をせざるを得ませんでした。

もう以前の様に友人と遊ぶことや、買い物でストレス発散をする時間もお金もほぼなくなりましたが、その頃にはもう友人だと思っていた人たちすら(散々反対もされましたし、その後仕事も変えてしまったので)疎遠になり、大して気になりませんでした。

当然、いきなり生活パターンを変えたので、時々発狂しそうなほど心が苦しくなる時もありましたが、琥鉄と幸せになるんだという思いと、色々言われた時の悔しさをパワーに何とかやり過ごしていました。

とは言え、働いて働いて学校行ってまた働くという無茶な生活。
本来なら教室で習ったことを家で繰り返し復習することで体が感覚を覚え、技術の上達に繋がるのですが、私はそんな気力も体力も家で残っておらず最低限の家事をして力尽きる毎日。
技術習得が遅く、先生にも呆れられていました。

それでも数年後にはかなり出来ることが増え、ようやく技術以外の授業が受けられる様になりました。
それは経営で必要な基礎や、屋号決め、商標登録のやり方など。

私は少し前から、店主は琥鉄で、ロゴも琥鉄をモチーフにしようと決めていました。
だって、琥鉄がいたからこそ彫金を学び、独立したいとここまで頑張れたのですから。
それだけじゃない。琥鉄がたくさんパワーをくれるから前を向ける。
私の作るモノにもそのパワーを少しでも良いから込めて作りたいと思いました。

店主もロゴも決まったけど、ネームセンスのない私は良い屋号が思いつきません。
横文字でおしゃれな感じにしてみたいけど、どうにも思い浮かばない。
夜な夜な琥鉄にも屋号何が良い?なんて聞いたりして(答えるわけないですが)
散々悩んで、ようやく『琥鉄堂』を捻り出しました。
もはや横文字でもおしゃれでもなく、純和風でゴツい印象の屋号になりましたが...。大きな身体でどっしりしてて、誰が来ても物おじしない琥鉄の風貌らしくて良いかもと思えました。

こうしてまだまだ独立まではほど遠いですが、ロゴマークを作り琥鉄堂の商標登録も数ヶ月かけて完了して「琥鉄堂」が誕生しました。

実際にロゴや屋号が可視化出来るようになると、独立するということが一気に現実味を帯びて来ました。
後はもっと技術を磨いて、琥鉄堂のコンセプトを決めて、あ、商品デザインを書き溜めよう...
やっと小さな光が見えたような気がしました。


⑫予兆?

彫金の習得ものんびりだけど順調に進み、琥鉄ももうすぐ10歳を迎えようとした頃、引っ越しをしました。
数年前から一緒にいるパートナーと琥鉄の3人で暮らすことにしたからです。
ありがたいことに、これで家賃負担は半分になるし、部屋も広くて琥鉄も伸び伸びできる上に、何よりようやく生活苦も少しマシになり、仕事も掛け持ちを辞めることができました。

がむしゃらに生きて来てあっという間に感じるけど、気づけば琥鉄もそろそろ10歳。
もうそんな年月が経っていたのかと思うと感慨深いものがありました。
ですが、琥鉄にはまだまだまだまだ元気に長生きしてもらうつもり。
だって琥鉄堂の開店を見て欲しいし、今までほったらかしすぎる気もするから、これから挽回したい。
そこで琥鉄が10歳になる少し前、思い切って仕事を辞めてしばらく琥鉄とのんびりすることにしました。
パートナーも賛成してくれ、後数日で仕事最終日という日のことでした。

忘れもしない、3月25日の夜。
仕事からの帰り道、ふと月を見上げた瞬間、
「誰か死んじゃうかも」
というおかしな思いに襲われました。
余りの怖さに手が震えるくらい。
念の為両親とパートナーに確認して、双方無事でした。
それが分かってもどうにも腑に落ちませんが、不思議な感覚だねとパートナーと話し、もうこの話題は忘れることにしました。

その晩、就寝前のことでした。
珍しく琥鉄が私の前にキチンと座るのです。
どうしたもんかと撫でたりしても動きません。
もっと他に要求があるのかと
ご飯?トイレ?おもちゃ?
違うようで、全然動きません。

「あ、そうだ、琥鉄。もうすぐ10歳ね。
今までほったらかし過ぎたから、あと少ししたら一緒に過ごせるようにお休み取るよ。
大好きだよ琥鉄。
どちらかの寿命が尽きるまで、ずっとずっと一緒だもんね。
でもでも寿命関係なくずっとずっと一緒にいたいなあー。
20歳越えれば猫又になるんだよね?
なって欲しいなあー。人語話さないかなー」

私は何気なくいつものように琥鉄に今後の予定と思いを話しました。(ほぼ毎日、今後の予定とその日あった出来事を琥鉄に話すのが習慣でしたから)

すると琥鉄は「にゃあん」ととても良いお返事をして、軽く伸びをするとご飯を食べに行ってしまいました。
いつも話しかけてもこんな風に鳴くことなんてなかったので、私はもう琥鉄が猫又の域に入り始めているんじゃないかと喜んだくらいです。

月を見た時に抱いた「誰かの死に直面する恐怖」のことはすっかり忘れ、いつものように琥鉄に腕枕をして一緒に眠りにつきました。
もうちょっとでたくさん琥鉄といる時間が出来ると思うと幸せでした。

⑬それは突然に

3月26日
その日の朝、それは突然でした。
私達と一緒に布団から出た琥鉄はその場で急に苦しみ出し、慌てて抱き寄せた私の腕の中で小さく鳴いてそれっきり動かなくなりました。

あまりに一瞬のことで理解が追いつかず、体を揺さぶり大声で名前を呼びましたが、再び琥鉄が動くことはありませんでした。

その日は偶然か、琥鉄の計らいか、私もパートナーも休日でした。

まだ出来ることはあるはず、琥鉄が死ぬわけない!
すぐに動物病院に連れて行きましたが、もう亡くなっていますという受け入れ難い現実が確定しただけでした。

その日のうちに火葬をしました。
琥鉄の遺骨は手元に残さないと決めました。

前の晩、あの子はお返事した。
ずっと一緒にいようねと言った時、確かにお返事したから絶対帰ってくる。
でも生まれ変わった時、私が琥鉄のこと分からなくて出会えないのは困るから、きっと琥鉄は私にわかる姿で帰ってくる。
ということは今と同じ姿でくるはずだから、今の琥鉄の体も骨も全部お空に返したほうがいい。そしたら材料も情報も揃っているから同じ姿で帰って来れる。
何故かそう思ったからです。

今まで琥鉄は私のそばにいることが当然の存在でした。
居るのが当たり前過ぎて、居なくなるなんて考えた事がありませんでした。
いずれ死が私たちを分つ時が来ることは知っていましたが、それはもっともっとずっと先だと頑なに思い込んでいたからです。

火葬も終えた後なのに、家に帰ると『琥鉄、ただいま』と言っている自分がいました。
琥鉄が死んだ事は現実味がなく、悪い夢から覚めていないだけの気がする。それなのに頭の隅では琥鉄のいない明日からを冷静に考えている。
変な感じでした。


⑭失って得たもの

琥鉄がもういないのなら、のんびりする意味がない。
幸い、その時は3月末で元々終了予定の期間限定職でしたから、自己都合で辞める訳ではありませんでした。
じゃあ4月から新たに職に就こう。
悲しみに負けないようにガシガシ働いて、バリバリ彫金しよう。

そう思った矢先、急に母から実家に来てほしいと連絡が来たのです。
そしてその電話からなんと3年のも期間、私は自分の生活を犠牲にして「親の望む、親をそばで支える良い娘」という役割を背負うことになりました。

両親からは孫も見せない親不孝者だの、育てた恩を仇で返すのか等々言われていたので、ずっと申し訳ないとは思いつつ、正直あんまり関わりたくないとうまいこと避けてきました。

このままずっと避けたままでも良かったのですが、さすがに後ろめたさもあります。
この時は、やっぱり孫を見せられないなら何か償いをしないといけないと思い込んでいて、すんなりその役割を引き受けてしまいました。
最も、はじめはたった数日久しぶりに帰省すれば済むと思っていたので、まさかこんなはずじゃなかったと途中何度も思いましたが。

もしも、なんてないのですが。
もしも琥鉄が亡くなっていなかったら、私は最初の時点で深く関わらないよう断っていたでしょう。実際、琥鉄を置いて何日もの間、親の元に滞在するなどあり得ません。琥鉄がいたおよそ10年間、琥鉄を口実に実家にも帰らず、ほとんど関らずに過ごせました。
ですが。
琥鉄もいない、仕事もしていない今ははっきり断る理由がありません。
この頃の私には、『自分が望んでやりたいと思わなければ断っていい』
という概念なんてありませんでした。
特に親や家族に関することは、よほどの理由がなければ絶対関わらなきゃいけないという概念に囚われていましたから。

詳しいことはここでは省きますが、この3年間の親との「すったもんだのあれやこれ」があったお陰で私は、自分の考え方を再度見つめ直すことになったのです。
それはこの期間に苦しくて誰にも相談できなくて、せめてヒントが欲しいと手に取ったたくさんの本がきっかけで、自分の両親がいわゆる毒親の類だったことや、「何か役に立つことをしていない自分は生きる価値がない」という親からもらった価値観に囚われていたこと。
自分のやりたいと心から思ったことは自分勝手な我儘で、相手(特に親)が喜ぶこと、望むこと、そして世間体が良いものが第一優先であるべきという選択基準などが骨の髄まで染み込んでいた事に気がつきました。
これは、今までの自分が無意識に従っていた、根底的価値観が音を立てて壊れ始めた衝撃的な体験でした。
皮肉にも、琥鉄を失ったことで親という呪縛から逃げるのではなく、本当に解放されるための道が出来たのです。
自分の人生は誰の許可なく決めても良い、親の都合を考えなくても良い、自分が本当に望む事を選んでいいということを知り、自分の価値観や考え方を少しずつ刷新する事ができたのです。

これは琥鉄が私に与えてくれた多くのギフトの中で最も大きく、素晴らしいものです。ただ、そう思えたのは全てが過ぎてしばらく経ってからのこと。
渦中はとにかく苦しく、今や思い出したくもないほどでしたけど。

そして。
あんなにやりたかったはずの彫金をも辞める事態になったのです。
これで琥鉄堂がこの世に出ることもなくなりました。
ここもなぜかは省きますが、この3年が辞める要因になったのは言うまでもありません。

⑮後悔と遅れて来たペットロス

こうして琥鉄が亡くなってから始まった、暗い出口のないような日々。
しばらくは大変すぎて琥鉄の死を悲しんで泣く暇もありませんでした。
何をどうすればこの日々が終わるのかすら分からず、私は前向きにもなれませんでした。
まるで、これまでの10年間は琥鉄の加護があったんじゃないかと思ってしまうほど。そう思うと、時間が経つにつれて琥鉄への後悔ばかりが浮かんできました。

琥鉄はずっとこんなにも私にたくさんのプレゼントをくれたのに。
私は一体琥鉄に何をしてあげられた?
もっと構ってあげれば良かった
こまめに健康診断に連れて行けば良かった
もっとご飯のこと気をつければ良かった
もっとちゃんと見てれば良かった。

琥鉄を死なせたのは私だ。

悔やんでも悔やんでも取り返しがつかないのに、なぜ生きている時にもっと大事にしなかったのか。
居るのが当たり前。元気なのが当たり前。そう思い込んでいたのです。
こんなひどい飼い主のところに琥鉄は戻って来たいなんて本当は思ってないのかも。私のエゴで琥鉄に戻って来てほしいだけで、琥鉄はもう私が嫌いかも。
本当にごめんなさい。
悲しみよりも謝りたい気持ちでいっぱいでした。
あまりにも辛すぎて、生前の琥鉄の画像も見返すことできず、琥鉄の使っていた用品のほとんども処分しました。

でもやっぱり戻って来てほしい。エゴだとしても琥鉄とまた一緒にいたい。
私の人生に琥鉄が足りないのはものすごく居心地が悪いのです。
私が琥鉄にしてあげられなかったこと、もう一度やらせてほしい。
お願い、帰って来て。
猫が欲しいんじゃない。琥鉄の生まれ変わり以外の猫じゃダメだから。
そう強く何度も願っても、私の周りには猫1匹現れませんでした。








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