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悲しい終わりだとしても、出会ってよかった、はず。

大切な人がコロナにかかった。連絡が来ていないから、発症から七日目に一度下がった熱がまた上がり、その後どうなったかわからない。

発症して七日から十日目あたりが、重症化するか否かの分かれ目だという。

少しでも早く、一日などと言わず、一分でも早く元気になってほしいと、願うこと、祈ることしかできない。

同じような状況の人、それもパートナーがもっと辛い状況にある人を、ツイッターで見かけるようになった。そんなツイートを見るたびに、大切な誰かを思う気持ちに共感して胸を痛めるし、自分の状況を再確認して不安が募る。

どうしても、もしものことを考えてしまう。考えたときに、こんなことになるなら出会わなければよかったのかと少し思う。

そう思ってすぐ、そんなはずはないと、感覚的に叫ぶ私がいる。


幸せを、より多くの喜びを得て、痛みを減らすこと。そう定義すれば、好きであればあるほどその人を失う辛さが増すような人間関係なんていらないと思いたくなる気持ちもわかる。

失う前の、楽しい時間が長ければ喜びの方が多い。そう言うのであれば、まだ長く時間を共にできたであろう人を、突然に失った場合はどうなるのか。

けれど私は、そもそも幸せとは、喜びと痛みの総量で決まるものではないと考えている。

幸せとは、痛みも悲しみも、悲しみのリスクを負った先の喜びも、経験することだ。大切な人を失って悲しんで、夢を叶えて喜んで、無駄だとわかっていても祈って、人間らしいことをやり尽くすことだ。

どんなに悲しくたって。それだけ悲しめるほどに、誰かを愛せた人生の方が、豊かで幸せ。じゃないだろうか。


そのために、とても多くの人が協力して、多くの人が尽力していることはわかっているけれど。

戦っている人も、大事な人のいく末を見守るしかできない人も、少しでも多くの人が救われますように。

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