見出し画像

正しい答えはないけれど

一昨日は、お弁当をテイクアウトして公園でランチ。昨日の夜は中華料理屋さんで買った餃子をおかずに。地元のレストランが形を変えて営業を続けようとしているなか、店内でなくても味わいたい、そして応援したい、(追記:ありていにいえば料理の手を抜きたい)という気持ちからだった。

連帯のある町だから、すぐに動きが立ち上がって、SNSを見るとテイクアウト情報まとめやMAP、ロゴが出来上がっている。「きょうはこのお店でテイクアウトしてオンライン飲み会」。そんな投稿を見て、自分もその一端に加わりたかった。

そんななか、Twitterでこの投稿が目に止まった。食にまつわるインタビューを重ねている井川直子さんの記事。

飲食店は「自粛への不信感」と「経営」の狭間で苦しみ。
お客のほうも「自粛の義務感」と「応援」の狭間で苦しみ。
刻一刻と変わる状況下では条件も判断もくるくる変わるけれど、道の途中で同じようにもがいている、仲間たちの声。
つまり「それぞれの」「今の」答。

これから声を聞いてnoteで連載するという。

結びつくのは、これまたTwitterで見つけたこの記事。

Twitterで反射的にコメントするのは避けようと思っていたけれど、引用リツイートせずにはいられなかった。

こちらは生活者目線だけど、外出しない/いつも通りというような二者択一の思考法からは距離を置いた方がいいという。正解/不正解もまた二者択一なのだろう。

できるだけ感染リスクを減らす行動をしようとすると、そのように行動していない人の姿が目に付くようになる。

感染リスクを減らす行動=家にこもることは、在宅ワークが可能な場合のように、経営・生計リスクさえなければ正解のように見えるけれど、まじめに取り組むほど他者への批判がわき、感染の隠避を招き、流行長期化につながる。

海外のように補償があれば家にこもるという正解が存在するようにも思える。でも、その選択肢は実は窮余の策で、先にはいつ解除するのかという問題が待つ。

そこで示されるのが「ケアのロジック」だ。

それぞれの生活の個別性と具体性に寄り添いながらなんとかかんとか持続的に生活を調整することで、可能な限り生をつないでいくことを目指す。
つねに完璧を目指すのではなく、誰もがいつかは命を落とすことを致し方のないこととして受け止めるアプローチでもある。
私たちは、自分たちが不完全な存在であることを認める必要がある。

正解がないことを、問題と捉えるのでなく、前提とする。

それでもその都度、答えは出さなければならない。

最初の井川さんのnoteで、この部分が太字になっていた。

「それぞれの」「今の」答。

人によって違う。同じ人でも、状況によって変わるかもしれない。

そんな答えを探しながら、みんな過ごしていく。過ごしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?