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敬語じゃない文書は偉そうなの?それとも否か?

 普段、常体の文書を書いていると時折思う。

「なんかえっらい、偉そうなこと言ってないかな?」と。

 そしてこのタイトルが既にえらそうだと思う。「否か?」だと?なんて気取ってるんだ。

 記事を書く際のよくあるルールや、偉そうなのは文体のせいなのか、そうじゃないのかを少しだけ考察。なにか書いてる人や、読んでいて気持ちのよいもの悪いものってなんだろうと思う人向け。最初は自分語り多めなので、嫌いな方は無視してください。

常体とは?「である調」での文章。その逆が「敬体」で、「ですます調」の事。

統一するのが一般的

 記事を書く際に、「ですます調」で統一したり、「である調」で統一するルールがライターの中ではある。一つの記事を書く際に、ころころ文体が変わっては、読者が困るから。

 けれど、自分のサイト(このnoteや、個人で運営しているサイト)では、見事にごちゃ混ぜの四季折々。読んでる方を混乱させるために書いてるわけじゃなく、これはテンポの都合でございます。

 この文書だって、今は常体スタートだけど、そのうち敬語が顔を覗かせる。今に見てろどっかーんなわけです。言ってるうちにもう出た。こういうことです。僕の文章は実にごちゃごちゃ。ルール無用の大乱闘なわけです。好き放題。

 小説を書くときも、ある程度の形式は作るものの、常体で始めたナレーションすら、たまに色々織り交ぜた口調にしてしまう。読んでるほうはもしかしたら混乱してしまうのかもしれない。『なんでもなおし』あげます、混乱を直して。

 敬語を使った語り部を作ったときに、急に常体を使わせると、いつもちびまる子ちゃんのキートン山田が頭浮かぶ。後半にー続く。

バランス感覚が大事

 これは自分が生きる上でも、なにかをつくる上でも重要視してるテーマで、常に考えている事。バランス感覚。なにかを紹介する際に、毎回言ってしまうくらい大事にしてます。(他の記事を読んだことがもしあればわかるかもしれません。)

 強い言葉を使うときに、強い口調を使ってしまうとただの暴言になる。
 けど、弱々しい口調で強いことを書いても伝わりにくいこともある。
 かと言って、弱く言えば伝わらない。

弱い言葉を虚勢はって使っても、ただのペラペラの紙みたいな言葉になる。すぐ破れる、強度はない。

「いかにして、伝えたい強い言葉を弱く発するか、弱い言葉を強い言葉に育て上げるかのゲーム」が文章を書くということ。僕の持論です。

 客観性と主観性をどこまで持ち合わせられるか、がキモ。 

読み手に配慮しすぎると、つまらない文章になる

 この背反するバランスがとても難しい。

 それを知るためには、人が書いた文書をたくさん、客観的に読んで、そのバランスを身体に染み込ませるほかないのです。

 そして困ったことに、このバランス感覚を意識しすぎると。ひたすらつまらない文書が出来上がる。

 どこまで個性を出していいのか、どこまで読み手に合わせるのか、その感覚は多くの分量を読んだ人や、あるいは敏腕な編集者などにしかわからない。

 小説ってほとんどが常体だけど、「うわ、なにこれ偉そう!!もうムリ読まない!」と思うことってほとんどないと思うのですよ。(たまにありますけど)あれがバランス感覚。

 逆に堀江貴文(ホリエモン)などはガンガンずばずば本音を言ってほしいし、彼が回りくどい言い方をしたらつまらなくなってしまう。

 彼のように偉そうなこと(核心をすぐつく)言ってるのが面白いタイプの人もいるのです。

 だから、好きに書けばいいと思います。(ライターなど、業務となるとまた別ですが)

【とても好きな好きな作家(アーティスト)がいるならば】 「この人の書くもの全てが面白い!」と思える人がいるなら、それは幸せなことです。 それでも、もちろん盲信はせず。”好きだから”この人が書くこと(言ってること)全てが心地いい、”だから”この人が正義、なんてことはないのです。それが正しいか決めるのはあなたです。

「ですます調」だろうと、偉そうな人は偉そう 

 著名な方でも、無名な方でも、文章のニュアンスで人柄はどうしても出ます。自分でちゃんと書いてるなら、必ずどこかにその人となりが出てしまいます。

 いくら「ですます調」で言葉を統一したからといって、内容が「煽り」だったり、人を馬鹿にするような内容であれば、「偉そうだ」と思うわけです。

 ドMな方ならそれでいいと思いますが、読み心地が良い文章であるかどうかは、読者によりけりでしょう。

 全編敬語で、心地のよい文章をかける方は、ほんとうにすごいと思います。自分は、どうしてもどこかでふざけてしまうので、スーッと流れる敬語が使える方は尊敬しています。

 物腰の低さや高さは、「語調」が決めるものではないということ

 偉そうに見えやすいとよく言われる「である調」ですが、それでも丁寧に紡がれた言葉や、言い回しなら偉そうだとは思いません。もちろん、「この文体でその文章だと偉そうすぎる」と思える文章もちらほら。どこの国の王様だ、絶対王政か、オメェはマザランか?と思わせてしまう文章は結構危険。

 「バランス感覚」の項でも書きましたが、強い言葉や弱い言葉は、それ相応のクッション言葉やコンテクストが必要で、それだけを取り出しても成り立たない。

 良いなと思える記事や小説や文章は、尖ってるようで実はとてもまとまってます。ストローマンにならないようにご留意願います。

むすびに

 ひとつの結論は、言葉の使い方とニュアンス、それと前後の文脈。

 文体が偉そうだとか、気取ってるだとか決めるものは、語調だけではないわけです。文章には人柄がでます。

 誰かになにかを伝えるためには、なるべくフラットなところから進める必要があって、レッテルをはられたら終わりです。読み進めてくれることはないでしょう。

 もしかしたらこの記事も偉そうになってるかもしれません。どうにかムカつかずに読み切ってることを願います。「むすびに」の毎回の書き方も、気取ってて結構偉そうな印象がある気がしてきました。大丈夫でした?

ではまた。

(ライター | 文筆 | Webデザイン)言葉とカルチャー好き。仕事や趣味で文章を書いてます。専攻は翻訳(日英)でした。興味があって独学してたのは社会言語学、哲学、音声学。留学先はアメリカ。真面目ぶってますが、基本的にふざけてるのでお気軽に。