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隣の友達に缶コーヒーを渡すつもりで書く、作る

 良い文章を書きたいと思う人は多い。誰だって書けるならいいものを作りたい。色んな人に届く文章を書きたいと切に願っていたりする。でも多くの人は勘違いしてる気がする。

 大勢に焦点を当てると、誰にも響かないのだ。たぶん無意識に頭ではわかってるはず。自分もその昔、それはそれは無茶苦茶だった。

誰に読まれたいのか 聞かれたいのか

 大事なのは、誰に届けたいか。音楽を作るときにしろ、エッセイを書く時にしろ、ウェブの文章を書く時にしろ、相手を見据えないとそれはただの独りよがりになってしまう。ただの自慰でしかない。

 仕事おわりの隣の友達に缶コーヒーを「おつかれ」と渡すくらいに、落ち込んでる人とご飯いって、あえてタバスコを入れてみたり。その人自身をみて決めた行動や発した言葉は、届くものだ。記憶に残る。

 隣にいるからこそ届きにくいこともあり、遠くにいるからこそわかる重みもある。

 ずっと一緒に過ごした家族のありがたみは、親元を離れてからのほうがよくわかる。父親から届く手紙は、字が潰れていて読めない部分もあるのに、目を凝らしてじっと読んでしまう。苦手だった父の言葉が、不思議と悪く思えない。

冷静に自分でみて、その作品を愛せるか

 さらに極端な話をしてしまえば、自分が読みたいか、聴きたいか、使いたいか。そもそもコンテンツを作る際に、ターゲットを見据えるのは、大事。けれど、相手だけを考えて作られたものは妙ちきりん響かない。

 自分がまず愛せるものを作らないといけない。後で自分で見返してわけのわからない作品であっては伝わない。

できあがりの満足度は主観

 モノが出来たとき、満足する。その時、瞬間はつくったモノの意味を細部、胆大心小に理解できる。けどそれは「時間を開けてもわかるもの」なのか?

 自分もたまに昔のものを見返すと、恥ずかしくてたまらなくなる。意味不明であったり、とにかく気恥ずかしい。自分の日記すら意味がわからないのだ。自分で作ったものなのに、まったく意味がわからない。奇妙通り越して事件。誰か解読してほしいけど、自分以外不可能。無慈悲。

 時間が経った後にみるものでも、誇りをもてるものを作らなければと自戒した。ほんとに独りよがりだった。ただ、もしかしたら今もかもしれない。この文章も黒い歴になるのかな。

特定の多数より、特定の少数、もしくは個人へ向けて

 誰か特定の人に向けた強い思いや言葉が、結果として多くの人を動かす。不思議なことに似た感情を持つ人は多くいる。情報伝達の発達した今だからこそ、ニッチな声ほどよく響く。荒げた声ほどよく渇く。

 これはただの文章です。それ以上でも以下でもありません。

 これを読んでるあなたは僕のことを知らないでしょう。

 読んでるあなたを、僕も知りません。それでも読んでくれてありがとうございます。この文章もなにかを作る大勢に向けてるせいで、もしかしたら誰にも響かないのです。ただ、昔と違って、読み返して意味がわからないなって思うことはないでしょう。少なくとも自分くらいは。

 それでは。

(ライター | 文筆 | Webデザイン)言葉とカルチャー好き。仕事や趣味で文章を書いてます。専攻は翻訳(日英)でした。興味があって独学してたのは社会言語学、哲学、音声学。留学先はアメリカ。真面目ぶってますが、基本的にふざけてるのでお気軽に。