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理解なんてされなくていいんじゃないですか?

「あーほんとにお前の言ってることわかんねーわ」
「なにがいいたいんだ?」
「理解できねー」

 そんな風な言葉をかけられた事のある人は多くいると思う。自分も基本的に他人から「よくわからない人間扱い」されている・いたので、自分のことを空っぽ人間だと思ってる。変人アピールとかではない。

人からみて表現の難しい人間なんだと。形容のし難い人間なのだと。そんなふうに自己嫌悪に陥った時期もあります。普通に生きにくい時期のほうが多いです。変人アピールする暇なんて、人生になかった。

高校のとき、クラスがずっと一緒だった人に、

「3年間一緒にいたけどよくわかんない」

と言われたときの虚無感たるや。思わず「まじか」と声が出ましたからね。おれもあんたのこともうわかんねぇよ…

結論言うと、「理解」なんてものはないです。エスパータイプか、斉木楠雄かじゃないと人の気持ちを理解することは不可能。気楽にいこう。そういう文章ですこれは。

【大前提】 理解しない、できないのは当たり前


まず最初に、100%わかりあえる人は存在しません。それを頭に入れてください。それと、これはあくまで人間関係の話です。プログラムや、テストの”理解”とは違う言葉の”理解”であることをご理解ください。

そもそもの結論ですが、ぼくらは超能力者じゃないから人の気持ちなんてわからない。ある程度は人の気持を理解をしようとしますが、完全に気持ちは読めません。世の中の理解って信頼の上に立ってます。言葉を悪くすれば、理解なんてものはただの憶測で、表面上での気の化かしあいです。

互いが知ってる知識を総動員して、どこかに共通項を見つけて、落とし込んで、”理解した気”になっているだけにすぎません。

理解することは、おたがいどこか妥協しているんです。

自分の持ってる経験や環境を、どうにかあてはめて、なんとなくわかった気になってるだけ。

◇ 理解できていることは、わかった気になってるだけ


「よっしゃ完全に理解したぜ!人ってやつをよぉ〜!」

例えば、こんなことを言ってる人がいたとする。
残念ですが、気のせいです。お疲れ様です。

「理解した気」になっているだけで完全な意思疎通はできてない。血のつながった親族でさえ不可能。親族が神様じゃなければ。

「手に取るようにあいつのことがわかる」とか言ってる人いたら多分ブラフをかけているので、揺られないように。そういうこと言う人らの言葉信じてたら、いつか壺買わされますよ。もしくはアムウェイへめでたく入会。「わかる」という言葉を簡単に使う人は信用してはいけない。

分かってるといくら言っても、だいたいわかった気になってるだけ。大学時代ずっと一緒にいたからとか、幼少期を一緒に過ごしたから気持ちがわかるとか、そんなわけないんですよ。四六時中一緒にいても価値観や気持ちの共有は永遠の命題です。

◇ 理解されると個性が消える?

それに加えて言ってしまうと、理解されないほうが個性は強い。理解されてしまう事は、その人の個性が消滅することに似てる。

会話における便利な言葉に「なるほど」がある。この言葉の「汎用性の高さ」ってのはとんでもなくて、言葉の抑揚さえ気をつければこれだけで一日乗り切れることもある。困ったら使っとけな便利な言葉。出し得な言葉。

1対1なら、さすがに不可能だけど、「返しの言葉」としてをこれひとつでやりきるツワモノもいる。ほんとに。

ただ、そうして出来上がった会話のほとんどは、キャッチボールを超えたドッチボール。殴り合いだ。

なにもわかってないの「なるほど」
ちょっと理解できることを言われたときの「なるほど」
ほかのこと考えてたときの咄嗟の返しの「なるほど」

とにかく、なるほどなるほど。なるほどの応酬、ラリー。一日でだれかの会話で登場しないことないんじゃないかと思う頻出ワード。なるほどなるほどなるほどくん。「なるほどくん」と聞くと、逆転裁判やりたくなる。1〜3はほんとに神ゲー。


◇ 「なるほど」が淘汰されない理由

この言葉、便利なのに消費されず、淘汰されない理由は「理解してない」からだと思うんですよ。実は理解してないことが許されてるんです。「なるほど」の四文字からにじみ出る「なんにもわかってない感」がずっと使われる理由なんですよ。

すべてを悟ったかのように「なるほど。ふむ」とか言ってドヤ顔かましても、ほっとんど理解してないんですよ。本当に100%の理解をしたら「なるほど」なんて言葉出ないんですよ。

「理解の曖昧さ」がこの言葉の息を長くしてる。つまり、「よくわかんないけどいい」って状態なのです。

◇ 「よくわかんないけどいい」が大事

100%理解できちゃった場合、研究が終わって、研究対象がなくなる。興味を失ってしまう。理解が簡単なものになると、個性が消費物に変わってしまってしまう。

この文章も噛み砕いて書いてますが、自分が書きたいように書いたら理解なんて到底追いつかないです。たぶん自分自身すらわかりません。そうなると困るからまず自分でわかるように書くんです。

例えば、場の勢いで、ノリノリで文学やポエムを書いたとします。数日後に読むと、「なにいってんだ自分….」となることも多い。

自分で書いた文章なのに意味が分からないんですよ。

国語の授業でやったように「作者の気持ちを述べよ」状態に陥るんですよ。作者自分なのに。(ただ、創作ってそんなものだと思います。意味わからないから創る必要があるんだと思います)

誰かになにかを伝えたい時は、「100%はムリでも数%くらいは伝わればいい」くらいの気持ちで書いています。

理解されないから、個性が消えずに残る。「この人の考えてることはよくわからんけど素敵」みたいな人いないですか? その「よくわかんけどいい」の感覚がすごい大事で、愛すべき対象になりえます。論理ベースで物事を捉える前に、”なんとなく”よい。そう思える感覚をまず大事にしたいのです。

例)楽しい飲み会が、3次会が急につまらなくなる現象


よくわからないからこそ興味がずっと残って、心に残ります。

疑問のひとつや余白を作れないと人の心には残りません。飲み会とかで、「1次会が楽しかったので、3次会まで残ったけど間延びした」といった経験ありません? 

その原因っておそらく、その場にいすぎなんですよね。

いいタイミングで解散して帰宅するから、「また遊ぼう」と思えたりする。全ての飲み会がそうとか言いませんが、経験ある方いないですかね。続けることも大事ですが、それと同じくらい終わることも大事です。

例えば『スラムダンク』の終わり方、モヤモヤしませんでしたか。「え、これで終わり?」と思いませんでした?続き読みたくなりませんでしたか。結局披露してない『BLEACH』の護廷13隊の卍解、気になりませんか?

私、気になります!でも存在しない。だからずっとずっと、悠久の時を経てなお、語り口になるのです。

「最高潮かもしんない」と思った時や、「今日は自分の出せる力を出し切ったこれ以上はなにもでません」と思ったときに一旦終わってみましょう。

◇「理解は勝手な押しつけ」

ちょっと、僕の思い出話になります。こういうの嫌いな人は飛ばしてください。

この「理解」というのを半ば放棄したのは、中学に、他人と相容れない自分に吐き気を催してた頃。少年マンガを読んで「ひととひとはわかりあえる」と思っていた。キレイで整頓された空間が人間の中にもあると思ってた。

だがしかし、中学生の多感な時期に、見えない会話の壁に激突した。コミュニケーションがまったくうまく行かない時期があった。

「あれ?もしかして人って人を理解できないんじゃない?」
と薄々気づきだし、「完璧な」理解を諦めた。中学でその疑惑が発生し、実際に「理解」を諦めたのは高校性の頃だったけど、その諦めることは結果として悪くなかった。

理解を諦めることは言い換えると「多様性をみる」こと。「理解しよう、わかってほしい」と思ってる頃よりよっぽど人間関係が楽になった。

「この人はこういう人」だと割り切れることで、より他人に面白さを感じることができるようになって、何より争いが生まれず落胆も減る。誰かを変えるつもりもない。外からムリに言われなければ変われない人なら、どうせどこかでまた戻るか落ちる。

他人にレッテルを貼らずに接すれば、人の面白いところが純粋に見れる、嫌いにもなりにくい。


ひとがひとを嫌いになったりするパターンはいくつかあるが、その一つが「理想から離れていくこと」だと思う。

求めてるものが多すぎる。他人に期待しすぎて、勝手に荷物を背負わせて勝手に期待して勝手に落ち込む。

理想は持つなとは思わないし、持つことは素敵だと思う。だけどそれを押し付けることは正直殺人みたいなもん。ただの傲慢な拷問ですよ。社会でやってしまうものなら、なんちゃらハラスメントて名称がつきますよ。コンプライアンスにひっかかるでしょう。


それでも「この人だけにはどうしてもわかってほしい」と思うひとも出てくる。そうした人のために時間や思考は使うべき。以前まではすべての人にそのリソースを割いてた。その必要がなくなったので楽になった。

理解してほしいとか、承認してほしいと思うひとは、一度理解を諦めたらいいかもしれない。

【軽いまとめ】
・理解されるは傲慢な押し付けである
・ぼくらは超能力者じゃないので、気持ちは読めない
・「よくわかんないけどいい」が大事
・理解されたいと考えるのではなくて、それぞれの思考は違うのである
・理想を押し付けてはいけない
・理解を諦めて、多様性をみることに楽しみを見出す

ここまで読んで頂きありがとうございます。

それではまた。


ちなみに今回画像引用させてもらったマンガは、『王様達のヴァイキング』と、『波よ聞いてくれ』です。どちらもおもしろいマンガなので興味が湧いたらぜひ。画像引用に使わせて頂いたサービスは『アル』さんです。

(ライター | 文筆 | Webデザイン)言葉とカルチャー好き。仕事や趣味で文章を書いてます。専攻は翻訳(日英)でした。興味があって独学してたのは社会言語学、哲学、音声学。留学先はアメリカ。真面目ぶってますが、基本的にふざけてるのでお気軽に。