おそらく偉人が、一度は経験したことがあるであろうことを体験した話

「光明を得る」。そんな体験をしたことがある。

寝苦しい夏の夜。まだ、「夜更かしを試す」なんて愚かなことをする前の話だったと思う。はっきり覚えてないのも、夜更かしを試したせいだ。おかげで大分記憶が曖昧になったし、耳鳴りの恐ろしさにも気がつかされるはめになった。

そんな寝苦しい夜、床についたのは、22時30分頃。この時私は大学2年生だったので、年にしたら19か20。この頃の私にとってこれぐらいの時間に眠るのは特別なことでは無かった。

寝付けない。どうやっても眠れない。別に神経が高ぶっているわけでもなかった。しかし、やたら暑く感じたのを覚えている。

私は、布団の中で1時間ほどもだえてから、眠くて寝床に入ったにも関わらず、かえって意識がはっきりしてきたことを自覚して困り始めた。すると突然、「俺は、今までの人生で聖書(キリスト教の)を読んでこなかったが、それでいいのだろうか」という疑問が起こった。ちなみに私は仏教徒だ。

なんでこんな疑問が湧き上がったのか全く分からなかったが、とにかく私は考え始めた。しかも不思議なことに、こんな事を考えたら余計眠れなくとは思いもしなかった。気がついたら夢中になっていた。

”聖書を読む必要があるか”という問いに、私の答えは、”いいえ”だった。なぜなら、中学生の頃、宣教師が校門の前で聖書を配っていたことがあって−−−そのほとんどは、その場に捨てられることになった。今思えばひどい話だ。あのときの宣教師が、捨てられた聖書を見てないことを祈る。−−−当然私も受け取ることになったのだが、その受け取った聖書の分厚さを覚えていたからだった。要するに、私の中には、あんな分厚いものを読みたくないという気持ちがあった。私の答えは、その結果なのだ。

”いいえ”。つまり、読まなくてもいい。私は、その答えを正当化するための言い訳を探し始めた。そして、なんとも絶妙な答えに行き着いた。

「私は、聖書を読まなくてもいい。なぜなら、聖書が”正しいもの”だとするならば、わざわざ読まなくても、書いてあることは”推察することができる”からだ」

”正しいもの”ならば、読まなくても”推察することができる”というのは、言い得て妙である。なぜなら、聖書の持つ正しさというのは、信徒に言わせれば、普遍性をもっていなければならないはずだからだ。普遍性を持つものには必ず理がある。つまり、理屈で言って、誰かに教わらなくても、自分で考えて導くことは、可能だということだ。

うまい具合に相手を持ち上げつつ、読むことを拒否することができた。正直に言うと、この時の気分は良かった。機転が利いたと自分のことを褒めていた。

”自分で考えさえすれば、あの分厚い聖書を読まずに済む”という正当性を得たのだ。

そんな正当性を得た私は、聖書に書かれていなければならないことを考え始めた。

「何を考えなくてはいけない?」

考え始めたはいいものの、何も浮かばなかった私は、キリスト教徒としての人生を生きてみることにした。頭の中でね。

信徒になってはみたものの、何も分からなかった私は、まず、神に感謝することから始めてみた。無償の愛とは、また違うのだろうが、とにかく感謝した。

「神様、今から私は、宝くじを買います。どうか宝くじを当ててください。」頭の中でそう願ったが、しかし、外れてしまった。

そして、「ああ」と、がっかりはしたが、気を取り直して、「神様、お導きくださって、ありがとうございます」こんな具合に感謝をした。もちろん、宝くじが当たっていても、感謝するつもりだった。こんな感じで別の男として生き、ことあるごとに感謝をし続けていると、一つの考えが芽生えた。

”何かやるたびにではなく、一日の終りに感謝をすればいいのではないか”という思いだ。そうして、段々と、感謝をする感覚は伸びていった。

「一週間に一回、いや、一ヶ月に一回でもいい、そうすると、一年でもいいし、十年でもいい。最後に、死ぬ間際にポツリと、神様お導きくださってと言えば、済むのではないか。何故なら、お導くださるということは、俺の運命は、決まっているということなのだから。どんな結末になろうとも、神がお導きくださったものに、俺は、不服は言うまい」

そう考えた。しかし、死を連想した時、”このお導きには、到底、納得することができない”ものがあることに気がついた。理屈にあわないというか、何か違う。そう思わせる出来事があった。

それは、他人に命を奪われるという不条理だ。

「例えば、強盗にあったらどうだろう。それで、刺されてしまったら。最後に俺は、”神様お導きくださって”と言えるのか。いや、いえない。これは何かが違うだろう」

”何かが違う”。未熟な私は、そう感じざるを得なかった。そこで私は、”人間というのは、己の運命を知らぬ哀れな生き物である”ということを知った。

こうして、私の中に、神の感謝ではなく、神への祈りが生まれた。己の運命を、知りたくなったのだ。必死に祈った。頭の中の俺は、だいぶ年をとっていた。そんな中、”己の運命を知らぬことからくる、相手への慈愛”に目覚めた。

それは、”己の運命が分からぬ”という恐怖心から生まれたものだった。いくら祈ってもわからない俺は、他人に優しくするよう努めた。自然にそうなったのだ。

「俺に何ができよう?結局、祈ることしかできないではないか。他人に優しくする。ひたすら優しくする。それで救われるのか?」

ちなみにこの時、頭の中の俺は、海沿いの街にある教会の司祭で、齢は50だった。子どもたちを相手に優しさを振りまいてた。

しかし、いくら願っても、祈っても、俺は、答えを得ることができなかった。

「神への感謝から始まり、人間は己の運命を知らぬ哀れな生き物だと知り、信仰心に目覚め、救いを求め祈る」

誰でも辿り着けそうな、まるで、凡夫の境地ではないか。凡夫ここに極まれり。私は、半ば自嘲気味にそう思った。

しかし、それでもめげずに考え続けた。

第一に、神への感謝だ。これはおそらく、最も低級だろう。まだ何も知らない。幸せだから、信仰心も起こりえない。
第二に、己の運命を知らぬと悟る。それ故、信仰心を持つ。この段階に来ると、もう必死だ。
第三に、神に救いを求め、祈り始める。祈ることしかできず、結局の所、分からないということが分かってくる。

今までの事をこう整理して、何回か繰り返した。

第一に、神への感謝 第二に、己の運命を知らぬと悟り信仰心を得る、第三に、神に救いを求め、祈り始める。

瞬間、閃きと光が同時にやってきた。

第四に、神の慈悲を得る。運命の選択だ!

・・・

目が光に包まれ、自分の閃きに、脳が反応し、興奮しているのが分かる。

閃いた時、まざまざと「光明を得る」という字の如く、本当に光を得るのを感じた。フラッシュしたんだ!

しかし、

「ん?ちょっと待て、なにかおかしいぞ……。光があまりにも長すぎる。」

私は、これを考えている最中、ずっと目を瞑っていた。そして、第四を閃いたのと同時に、目に光を感じたのだ。確かな光を。

「まだ光ってる……」

私は、少し怖くなった。

「おかしくねーか?嘘だろ?!まだ光ってる……」

時間にして5秒ほどだろう。

私は、流石におかしいと思い、おそるおそる目を開いた。

すると、私は、

光がカーテンの隙間から漏れて、私の顔を直撃していた!

ことに気がついた。

こんな事を考えているうちに、夜が明けて、朝になったのだ!

時間を確認すると、4時だった。鳥の鳴き声が聞こえる。

流石に驚いたというか、この状況にあっけにとられた。夏休みに起きた出来事だったから良かった。普通の日であれば、確実に大学をサボっていた。

整理すると、

閃き、"光明を得た"と思ったら、本当に顔に光が当たっていた。しかも、考えすぎて朝になっていた。

これが私のした、おそらく偉人が、一度は経験したことがあるであろうことを体験した話です。ありそうな気がしない?

・・・

もう忘れてしまったかもしれませんが、

第四に、神の慈悲を得る。運命の選択だ!

これについて説明しましょう。

これは正確に言えば、神の慈悲を得るのではなく、既に得ていたという事に気が付きます。

つまり、選択の自由です。

第一に、神への感謝 第二に、己の運命を知らぬと悟り信仰心を得る、第三に、神に救いを求め、祈り始める。

そして、第四に、神の慈悲として、選択の自由が与えられていることに気がつのです。

この選択の自由、運命の選択についてですが、一神教の恐ろしさを体現します。

つまり、

神に従って生きるか、それとも、背いて生きるか

という究極の選択を迫ってきます。

自由。神は、自分に背くことさえ、許しているのです。ルシファーの存在にも納得がいくというもの。

何故、この選択が神の慈悲になるのか。

それは、この選択をすることによって、仮に、自身にどんな結末が訪れようとも、少なくとも、根源的なものである、この選択は守られるからです。

結局の所、いくら神に感謝をしようが、己の運命を知らぬと悟ろうが、祈ろうが、分かることは決してない。

しかし、

神に従って生きるか、それとも、背いて生きるのか

というのは、自分自身で選べるのです。

これほどの自由はないでしょう。誰かの命を奪う、強盗になることだってできるんですよ!もちろん、神に従うという選択をしながら。

これが私の考えた、聖書に書かれていなければならないことの全容です。

ちなみに、全く同じではないですが、似たものは検索したら出てきました。当時、エジプトの聖書が検索にひっかかった覚えがあります。ただ、”神に従って生きるか、それとも、背いて生きるか”という直接的な表現ではありませんでした。もちろん、”運命の選択”だなんて書かれていません。選択の自由を匂わすような文章であったのを覚えています。おそらく、書く必要がなかったのでしょう。当たり前すぎて。

見つけたら載せておきます。見つけられる自信ないけど。

私の答えですか?

もちろん、保留ですよ。