働かざる者食うべからずという言葉

2021/04/10 新しくしました。改訂版もいずれだします。

 調べてみると、これはレーニンという人が使った言葉のようです。はっきりとはしていないものの、新約聖書から引用したとされています。

昔はよく聞いた

 私はてっきり、日本のお百姓さんか誰かがいった言葉だと思っていました。つまり、日本に古くから伝わる、父祖伝来の言葉だと思ってました。子供の頃から、よく耳にする言葉だったので。むしろ、子供の頃は、よく耳にしたといったほうがいいかもしれません。全く聞かなくなったのは、気のせいではないでしょう。理由としては、不景気が続き、一時は、働く場所さえなくなったと騒がれたからでしょうか。ゆとり世代は、最も楽な世代と呼ばれ、学生の頃は、就職氷河期の事をよく聞かされました。「私はそうでもなかったが、大変なものは大変だった。それに比べれば、君たちの年代は楽だ」

 就職氷河期のwikipediaには、こう書かれています。13年近くにわたる採用抑制の影響により、多くの企業で人手不足となっており、労働環境が苛酷になるブラック企業が増加した。−−−就職氷河期の一時終結と既卒者の就職状況

 ブラック企業が増加したのは、就職氷河期と関係があるようです。知らなかった。

働かざるもの食うべからず

 社会主義を成立させる為に使われたこの言葉には、悲しい事実をはらんでいます。与えることのできる数には、限りがあるということを暗に示しているからです。この限りがあるというのは、当然食料のことですが、食料を取らねば生きていけないわけですから(*1)、結局のところ、死刑宣告だといえます。要は、選定ですね。「働かざるもの~べからず」という文句には、色々言えることはあるでしょうが、”選定”に関しては、我々もとやかく言えないでしょう。身近なもので例を挙げるとするなら、恋人選びでしょうかまたはnoteの購入。選定というのは、常に行われています。しかしながら、人々に選定という意識はないと思われます、欠けていると言ってもいいかもしれません。それはともかく、主題の引用元は聖書とされています。私は、聖書というものに関して、神の言葉が綴られている本だとばかり思っていました。しかし、違うようです。

 「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」これが元になったと言われる言葉です。テサロニケ人への第二の手紙-第3章3:10

 聖書に書かれている言葉がどこから来たものか、つまり、根拠となるものは何かと問われたら、それは、やはり、神でしょう。しかし、これが神からきた言葉だとすれば、おかしな点があります。労働というのは、主従関係があって初めて行われるものだからです。例えば、人間であれば、生き延びるために、主従関係じみた肉体への奉仕が必要となってきます。つまり、主人である肉体に奴隷のように餌を運ばなければなりません。したがって、この時点では、餌を運ぶこと、要は、生命の維持に務めること、これが人間にとって、課せられた仕事(労働)であるといえるでしょう。しかし、そうなると、生まれたばかりの赤子はどうなるのでしょうか。これには奉仕するものが必要です。つまり、元から人間は、生命に関しては、主従関係のようなものを持ち、しかも、その関係は、一定ではなく、いったりきたりする。赤子のときは、他人に奉仕をさせ、自分で働けるようになれば働き、時折、他人に奉仕する。まとめると、自分の生命だけではなく、他人の生命も維持するよう努めること、これこそが労働であり、人類がなすべき仕事であるといったところでしょうか。簡単にいえば、生きることとなります。生きることこそが働くことである。

「自身は、主人であり奴隷である」という矛盾

 ここで、主従関係という言葉について考察したいと思います。上記の事柄は、主従関係という前提が正しい場合にのみ、効力を発揮するからです。しかし、上でもっともらしいことを書いておきながら申し訳ないとは思うのですが、この主従関係という言葉は、私の中では既に崩れ去っています。なぜなら、「主人である肉体に奴隷のように餌を運ばなければなりません」という部分には、「自身は、主人であり奴隷である」という矛盾があるからです。しかし、その後の赤子を例にしたものを見てみれば、「自身は、主人であり、奴隷である」というのは成り立つような気もします。これはどういうことになるのでしょうか。まず、主従関係という言葉自体に、いくつかの問題があるとみて間違いないでしょう。この主従関係という言葉を突き詰めてみるのもいいと思うのですが、今回は止めることにしてます。

 その代わりといってはなんですが、「すべき」という、より強力な言葉を想起することができるのではないでしょうか。この強力な言葉を前にしてみれば、さっきの”主従関係”という言葉は、人が作り出した言葉だというのがありありとわかるではありませんか。そして、ここで思い出していただきたい。元はといえば、「働かざるもの~」という言葉は、レーニンという人物が放ったものと、聖書からの引用であるもの、この2つが存在していたということを。つまり、片方は、人間が一時放った言葉であり、もう片方は、普遍的な性質を持った言葉であったと。従って、この2つの言葉は、性質が違うものであった、ということが今更になってはっきり理解できるではありませんか。

 私は、レーニンの、「働かざる者食うべからず」と、聖書にでてきた、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」を比べました。しかし、この比べ方を間違えたのです。何が間違いだったのか、それは、ある時、一定の空間にしか存在することのできない理論と、普遍性のある理論、両者の性質を理解せずに比べたからでした。働くもの、つまり、働くということ。これを語るに、レーニンの言葉には、不足があった。そして、この不足というのは、力不足であったと言うほかないでしょう。

言葉に力不足があったなんて!

 これはもう、驚嘆の一言です。言葉に、「力が不足していた」なんてことがあったなんて。いや、そういうものを今までに一度も感じていなかったというのなら嘘になりますが。

 まず、人間が働くということを説明するためには、何が不足していたかを、再度はっきりと表しましょう。それは、「すべき」という普遍が不足していたということです。

「働く=生きる」には、「すべき」という普遍がなくてはならない

 私は、働く(労働)というのは、「自分の生命だけではなく、他人の生命も維持するよう努めること、これこそが労働であり、人類がなすべき仕事であるといったところでしょうか。簡単にいえば、生きることとなります。生きることこそが、働くことであるとまとめましました。しかし、しつこいようですが、これは、主従関係を軸とした話で、「すべき」はありませんでした。

 上の論の欠点(”すべき”がないということ)なのですが、それは、「自分の意志の元、拒否することができる」という点です。つまり、生きることに対して拒否が可能であるということになります。そして、これが、「すべき」という普遍がなくてはならない理由です。なぜなら、「すべき」は、人間に拒否をさせません。要するに、人間は、「すべき」という普遍を手にして、初めてめでたく「生きるべき」となるのです。

「生きるべき」でなければ、生命は無意味なものになる

 「すべき」はもともと、「労働は、主従関係があって初めて成り立つ」とした場合、『「自身は、主人であり奴隷である」』という矛盾が生まれるので、それを解決すべく、自然と湧き出たものでした。その理由は、主従関係であるならば(つまり「すべき」でなければ)、拒否することができるからでした。「すべき」は、「労働」を拒否させないために必要だったのです。それが今や働くことに対しての矛盾はなくなり、「自身は、すべき」と単純明快なものになりました。しかし、これで終わったわけではありません。人間にとっての働くことは、生きることだと分かりました。生きることは、すべきでなければいけないということも分かりました。でもまだ、なぜ「生きるべき」でなければならないのか、これをはっきりさせたわけではありません。

  生きることに対して拒否が可能である。「すべき」は、この問題を解決し、人間を「生きるべき」としてくれました。しかし、本当に人間は「生きるべき」なのでしょうか。考えてみましょう。「生きるべき」でなければいけない、そのわけを。

 もし、人間が生きるべきではないというのなら、なぜ人間は、生まれてきたのか。

 人間に限らず、生きるべきでないのなら、生まれてくるのは何故なのでしょう。「生きるべき」でなければ、生きることのみならず、生まれることへの疑問が生じます。

死という概念

 生きるべきだというのは分かりましたが、そうだとすると、死が訪れるのは何故なのか。つまり、「死ぬべき」とも言えるかどうかという疑問が浮かび上がってきます。しかし、上述した、「生きるべきでないのなら、なぜ生まれてきたのか」という問いによって、これは否定されているのではないでしょうか。私は、「死ぬべき」とは、定められていないのではないかと思います。肉体の性質上、死んでしまうが、だからといって、死ななければならないと決まっているわけではない。言い換えれば、長生きできるのなら、どれだけ生きても良いとなります。「生きるべき」という定めに、期間が設けられているとは、考え辛い。むしろ、その期間が、どこを探しても見当たらないのが、人間だと言えるかもしれません。己の運命を知ることができない、哀れな生き物だということです。

 仮に、いついつからいついつまで「生きるべき」と、期間が定められていたとしたら、これは、主従関係を持って生まれてきたということになり、「すべき」ではない主従関係には、拒否権のようなものを行使することができるので、結局のところ、生きるべきとはならず、矛盾します。

意識の問題

 これはテーマに直接関係なく、書く必要がないと思うのですが、一応念のために書いておきます。自分の意識が確かに存在しているということを証明しておかなければ、何を書いても無駄になってしまうといういらぬ心配から来ています。

 ここで、デカルトという人物の言葉を用います。その際、その説明を自分の言葉ではなく、1冊の本に頼ることになるのをお許し下さい。とはいえ、デカルトが本当にそう考えたかどうかというのは、重要ではないので、良かろうと思います。私は。

 しかし今度はデカルトは、もしも神さまが、実は二プラス三は五ではないのだが、(中略)誤って五と計算するように自分を創り出しているのだとしたら(中略)というふうに疑いを進めてゆきます。もっとも神様ともあろうものが、人間を常に過(あやま)つように創造したということは、(中略)だが敬虔(けいけん)なカトリック信者たるべきデカルトとしては、さすがにここに神様を持ち出してくることは思い直すことにして、(中略)老獪な悪霊をもちだしてきて、(中略)自分を欺いているのだとしたらどうだろうと考えてみます。
哲学初歩 斎藤信治 東京創元社 p,65-66

 それは、もしも自分が世界のうちにはまったく何者もないと自分を説得し、したがってまた自分自身でさえも存在しているのではないというふうに自分を説得しようとしたのだとしたら、そんなふうにわたくしがわたくしを説得している以上、そのわたくしはやはり確かに存在しているのではないか、ということなのです。もしまたここに老獪きわまる悪霊がおって、わたくしは別に存在しているでもないのに、わたくしを欺いてあたかも存在しているかのように思い込ませているのだとしても、そのように欺かれている以上、そのわたくしはやはり何としても存在しているわけではないか。(中略)しかしいっさいは疑わしいというふうに疑っているそのわたくしが存在しているということだけは、これは何としても疑うことはできない。わたくしは疑っている、すなわちわたくしは考えている、(中略)ここで、デカルトのかの有名な言葉、(中略)「我思う、故に我在り」が発せられることになります。  
哲学初歩 斎藤信治 東京創元社 p,67

 必要ないと思われますが、補足を書いておきます。

 人間の身では、この世に確かだと思えるものは何一つ見つけられないが、自分の意識に関しては、たしかに存在している。なぜなら、人は、悪霊によって意識を騙されているかもしれないが、騙されているということは、騙す対象がいるということ、つまり、私が何かを思って、それが悪霊の手によって捻じ曲げられて、答えには決してたどり着かないとしても、悪霊の手によって騙されている自分は、はっきり存在しているということになる。

 実際の私は、ベッドの上で、寝たきりになっていて、今見ている現実は、そこで見ている夢かもしれない。しかし、これが夢であろうと、夢を見ている自分は確かに存在する。

 意識は、はっきりしないが、どちらにせよ、意識している私は存在する。我思う、故に我在り。

生きるために必要なこと。命の存続

 食欲、睡眠欲、排泄欲を人間の3大欲求(この3大欲求というのは、日本でのみ通用する考え方らしい)と表現されることもありますが、今回、着目するのは、食べることです。なぜなら、食べるということは、他者の命を奪うことであり、「生きるべき」という定めと相反する性質を持っていると考えられるからです。二律背反というものでしょうか。

 これは、「死という概念」で述べた、「死ぬべき」かどうかに近い物があります。「生きるべき」からは、「奪うべき」だったり、「殺すべき」といったものは見いだせません。逆に、「他者の命を奪うべきではない」とされるはずです。

 「生きるべき」ならば、命を失うことに対して、怯えなければなりません。それが、他者の命であってもです。「生きるべき」には、普遍性があり、自分だけのものではないからです。しかし、他者の命を奪わなければ生きていけないのであればどうでしょうか。現状がまさにそうです。許されるのでしょうか。

 これ、実は、抜け穴的な考え方があるんですよ。それが、遺伝子です。つまり、「生きるべき」が、単なる命の存続のことではなく、遺伝子の存続であるとすれば、この論は、無情にも成り立ちます。例えようもないぐらい現実です。

 遺伝子さえ存続させているのなら、食べてもいい。これは恐ろしい!しかし、かなり理性的でもある。人間は、「生きるべき」だとはっきりと認識していないのにもかかわらず、知らず知らずのうちに、「生きるべき」に近い行動を取ってきたのでしょう。私のここまでの論に形成された社会を当てはめて見ればわかります。例えば、家畜。人間は、ギリギリのところで許されているといえるでしょう。ここで許されているというのも変ですね、「生きるべき」に、ギリギリのラインで従っているといったところでしょうか。

*以下、あまり関係ないこと。
 でもまぁ、これは本当に理にかなっていますよ。例えばですが、遺伝子を絶滅するまで食べるなりなんなりしてしまったら、食べるものがなくなり、「生きるべき」が果たせなくなるわけですから。昔は、必要以上に取らなかったといいます。まだ無くなっていないということは、今もそうだとは思いますが、本当に考えられるギリギリの所で世界は成り立っていると感じますね。私は、ご飯食べる前に、「いただきます」は必ずいっていましたが、これを書いて、生涯、言い続けることを確信しましたよ。

 次は、私が何故この考えに至ったかについてお話します。

生きる上での不条理と不条理の排除

 例えばですが、人が、誤って川に落ちて死んでしまったとします。他の人がどう思うかは分かりませんが、私は、こういったことに不条理を感じます。私たちは、この不条理に対してどういった行動がとれ、どういった行動をとるでしょうか。例えば、川に柵を立てることを思いつき、人が落ちないようにしたりすると思います。

 他にも、不条理はあり、獣に食べられたり、食糧不足だったり、病気だったりして死んでしまったりするでしょう。

 何が言いたいかというと、つまり、生きる上で、こういった不条理を見つけ、排除していくのは当然の成り行きだと、そう言いたいわけです。ここまでに挙げたものであれば、不条理を排除することに、皆さんの同意を得るまでもないでしょう。

a.怯え

 それでは、人が人を殺めた場合はどうでしょう。これは、数ある不条理の中でも、よく注目を浴びます。ある道理に従う者には、理解できない部分を含んでいるからです。上述しましたが、「生きるべき」ならば、命を失うことに対して、「怯え」がなければなりません。それが、他者の命であってもです。なぜなら、「生きるべき」には普遍性があり、自己だけではなく、他者にも適用されるとはっきり分かるからです。殺めることができるというのならば、行動に移す程度には「怯え」がないと推測することができます。問題は、どのような理屈で、「怯え」がないのかです。一般的な、「怯え」の喪失は、食べること、つまり、狩猟目的の為に、自ら消し去ったものであると推測することができます。この点(狩猟)に関しては、人間以外の動物にも、「怯え」は見られません。結局、「怯え」は、喪失させることができるので、人は、「怯え」の有る者と、無い者とに分かれることになります。「怯え」の有る者にとって、「怯え」の無い者は、理解できないとしても、おかしな話では無いでしょう。逆も然りです。特筆すべきは、どちらも道理にかなっているという点です。

b.怯えの無いもの

 人が人を殺めることを、仮に、不条理に命を奪ったとします。なんらかの理由で、「怯え」を喪失したのは間違いありません。こういった人間を放置しておくことは、上記で挙げた不条理と同様、好ましくない体験をもたらします。

 しかし、ここで問題が発生します。獣に襲われた場合も同様なのですが、こういった不条理を解決するためには、「怯え」が邪魔になってきます。なぜなら、今度は、こちら側に殺める必然性が出てくるからです。

 しかし、不条理に命を奪うものに対して、命を奪うことに怯えていたら、「生きるべき」という原理を達成することができなくなってしまいます。ここで、怯えのない人間、つまり、不条理を取り除くものとしての殺める者が登場してくるのは、別に不思議ではないでしょう。こうして、人間は、ある道理をそれぞれ持った(ある道理にそれぞれしたがった)形で、複数に別れます。

 大きく分ければ、怯えの有るものと、怯えの無いものですが、どちらも「生きるべき」には従っています。理屈で言えば、「怯え」がなくてはならない。しかし、「怯え」が有る以上、「怯え」は無くすこともできる。つまり、殺めうる。そして、これが人間に多様性をもたせている一因になっている。

c.選定としての命の管理

 最高に理性的な行動は、命の管理だと言えます。当然これは、理屈で言って、最低な行動にも成りえます。

 これは、現実的にはありえないかのように思われますが、そんな事はありません。例えば、両親が我が子のために自分の身を犠牲にして守るといった話は、一度ぐらい耳にしたことがあるでしょう。映画や、小説といった物語にも登場します。戦争物にはよく出るでしょう。

 まとめ

今日までに投稿しなければいけないので、省きます。間に合わなかった。自分の為に後でまとめるけど、多分それをアップロードすることはないと思います。

未整理の雑文-上記との関連性はほとんどないです

 余談になりますが、私は、常々、学問を修めるには、天運が必要だと感じています。良き本、良き人物に巡り合わなければ、知り得ないことがある。人は、いずれ限界を迎えます。発想の転換をすれば、鍛えて限界まで高めた人間の知識を、参考として手に入れておく。できれば、良き人物を知る、これが最もはやく学問を修める方法ではないかと思います。

殺し合いになる

「生きるべき」を「生きるため」と勘違いしたので、失敗した。「生きるべき」に従い行動するのが正しいといえます。

 神が単一の存在であり、主従のないものであるならば、どう考えても労働をしません。奉仕する相手がいないからです。結局のところ、労働には、奉仕する対象を必要とするようです。

 よく言われる、「神がそうであるように人間を作ったのに、何故許されないことが出てくるのか」。そもそも働くとは何でしょうか。神のために働くことこそが労働なのでしょうか。そうだとしたら、誰が決めたことなのでしょうか。

 生命の維持に務める。これが人間にとって唯一の労働であるといえます。しかし、これを忘れ、利益と結びついた時、「働こうとしないものは、食べてもならない」は、破綻します。

実は、途中で書いたあとがき

 この記事を書く前の私は、「この言葉を使った組織は、滅ぶ定めにある」という結論が出ると予測していました。だから、「なぜなら、それは真理から外れたものだからだ」と言った具合に、話をまとめる気でいたのです。これは、言葉のトリックとも言うべきものなのですが、本当に滅ぶのです。むしろ、滅ばないほうがおかしいと言えます。考えてみてください、この世に、いくつの国家が生まれ、いくつの組織が崩壊していったのか、そこにいる彼らが、真理を用いて生きていたのか。答えは、おそらく違うということになります。なぜなら、皆滅んでいるからです。これは、単純な論になりますが、同時に、否定することも難しいのです。結果論です。つまり、今までに滅ばなかった国家や組織は存在しないということを理由に上げて、てきとうに切り上げるつもりでいました。それから、言葉のトリックの方に焦点を当て、いくらか話し、終えるつもりでした。それが、ここまで長くなるとは、不思議なものです。ちなみに、聖書を持ち出して話を展開しましたが、私は仏教徒です。

やる気のない注釈

*1 ソクラテスは、これを主人と奴隷の関係にみたて、肉体の奴隷と表現しました。人は誰しも、自分の生命の維持のため、主人である肉体に、奴隷のように餌を運ばなければならないからです。