Mort,ibi
言ってることがおかしいのか、それとも前提がおかしいのか、考える必要がある。普段見過ごしがちだが、言ってること以前に、前提がおかしいというのはよくある。
特に話し合いの場では、言ってることがおかしいなと感じたら前提について話さなくてはならない。そんな事態を防ぐため、予め前提について話し合っておくといいのだが、これが難しい。合理的なはずなんだが、聞く耳を持たないものがほとんどだ。理由はわからない。確認すら嫌うのであれば、言いたいことを言うだけの場になる。それを望んでいるのだろうか。話し合う前から、”話し合い”の前提がおかしいことに気がつく。そんなときでも、俺の頭脳は、(既に確信を得ているのにもかかわらず)ていねいに嫌な予感を蔓延させなければ満足しない。やがて訪れる二度目の確信は、時間の無駄・人生の損失にほかならない。
仕方なしにぶっつけ本番、その場で、言ってることがおかしいのか前提がおかしいのかを考え、場合によっては指摘し、場合によっては話し合い事態をなくす、つまり、すぐに諦めるのが賢明というものだ。休み時間にしよう。
指摘するのなら、言ってることは、全体がおかしいのか、部分がおかしいのかを確認しつつ、誤った前提のもとに導き出されたものだと伝えなくてはならない。前提がおかしければどんな結論でも導き出せるからだ。
言いたいことを言うだけの場では、本来、自分で考えなければならないことまで誰かがこうやって考えなくてはならなくなる。しかも、その難題をこなした所で、そもそも話し合いの前提がおかしいので、このトゥールドフォルスが相手にしっかり届くのか怪しい。
死よ、在れ
例えるなら、この話し合いの場は、ガリレオの裁判だ。こういうとき、ガリレオは本当に役に立つな。地動説より役に立つ。まぁ、本当はガリレオ言いたいだけだが。
言ってること前提にしても、知識が不足しているのか、考える力が不足しているのかなど、多岐にわたる。うっかり無意味なことを言うことだってあるだろう。
事前に前提を話し合いさえできれば、それぞれの考える力と洞察で済むものを、自分が言いたいことを言いたいがために、わざわざ人に自乗、3乗、4乗……と重しを乗せるなど、良心がまるで感じられないではないか。
そして俺は自分の言いたいことを忘れるのであった。