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気合だの根性だのについて考える

「気合」だの「根性」だのといった類いものは、ど~しても忌み嫌われがちだと思われる(そうは思わない人が沢山いることも重々承知しているので、そういった方はご容赦頂きたい)。
根性論だの精神論だのそんなものはクソ食らえだといった風潮が何となく世の中にはあるだろうと思う。
分かる、分かるよ~。
みんながそういったものを嫌う気持ち、オジサンよく分かる。
「気合とか根性って、非科学的じゃね?何か理知的な感じしないし、具体的じゃなさそうだし、汗臭くて泥臭そうだし。」なんて思いたくもなる。
「根性論だの精神論だのなんて時代遅れで時代錯誤だ!」と言いたい気持ちもあるだろうと思う。
分かるよ~。

でもちょっと待ってくれと俺は言いたい。
俺は学生時代からそれらについて少し考えていることがあるのだ。なので、とりあえず俺のその話をちょっと聞いてから気合だの根性だのについて評価して頂きたいと思うのだ。

まず、先に結論から述べよう。

「気合を入れる」とは、「集中すること」なのだ。もう少し細かく言うと、「ある対象に対して、自分の意識や力を集中させて取り組むこと」なのである。

「根性を鍛える」とは、「自分が限界だと感じる閾値(いきち)を向上させること」なのだ。「自分の脳が限界だと判断してしまっている範囲を広げること」なのである。

では、これらについての拙い解説を俺のちょっとした思い出と共に述べたいと思う(え?思い出いらない?ま~そんなこと言わないで聞いてくれ)。

俺は学生時代にやたらと「気合!」だの「根性!」だの言う組織に所属していたのだ。
「應援團」という組織である(応援団のことね。やたらと旧字を使うの好きな団体なのだ)。
クソ暑い日もクソ寒い日も黒い学ランを着て演舞のような演武のような動き(←この動きを応援団ではリーダーと呼んでいた)をして色々な部活を応援してる日本独自のあの団体のことである。
今振り返れば、もっと学生生活を有意義に過ごすべきだったのではないかという思いがないこともないが、ま、そんな話は置いておこう。令和の現在、應援團がどんな風になっているのか俺は知らないのだが、今から20年以上前の應援團はやたらと気合だの根性だの言う体育会系の権化のようなところだったのだ。

應援團はやたらと筋トレなどをして自分達をシバき倒すのだ。
その理由は、競技する選手達に気合いを入れてもらう為に応援する側も気合いを入れる必要があるのだというどえらい理屈からであったり、強靭な肉体にこそ強靭な精神は宿るのだとかいう崇高(?)な理念からであったり、リーダーを演じたりクソ重い團旗を持ち続けたり太鼓をひたすらに叩き続けたりなど実際の応援で必要な体力や筋力を身に付ける為であったりと色々であるが、とにかく、ドMかというくらい己をシバき倒すのだ。
ぶっちゃけ、俺はやってられるかと合宿を逃げ出したことがあるくらいである(情けない思い出である)。
ただ、曲がりなりにも應援團活動をしていて気付いたことがあるのだ。
それは、「気合を入れる」とは何か、「根性を鍛える」とは何のことなのかについてである。
例えば、拳立て(腕立て伏せじゃなくて拳立て伏せ!腕立てをグーでする)をしたとしよう。
最上学年の先輩の合図「拳立て用~意っ!!」と共に拳立ての体勢を作り、拳立て連続30回スタートしたとする。
途中20回過ぎたくらいから腕がキツくなり、又、地面と接している拳は痛くなるわでなかなかにハードである。「こんなの20回くらいが限度じゃね?」との思いが頭をよぎる。
腕をプルプルさせながらそんなことを思っていた矢先に先輩が「気合だぁぁぁっ!!!気合入れろぉぉぉぉぉっ!!!!!」と叫んだとする。
その言葉にビビッと脳が反応し、やってる方も雑念を忘れて気合いを入れ直して「うおぉぉぉっ!!!」となるわけだ。
すると拳立て30回を何とかこなすことが出来たりするのだ。

何が言いたいのか?
つまりは、ここでの「気合を入れた」とは「拳立てをこなすことだけに意識と力を集中させた」ということなのだ。
そして、結果としては20回くらいが限度だと思っていた拳立てが30回出来るようになったわけで、「己の肉体の限界の閾値を向上させた」ことになったわけなのだ。これが「根性を鍛える」ということなのである。閾値を決めてしまっているのは自分自身の脳なのだ。その思考閾値を広げるのである。
たがら、「アイツは根性がある」という評価があるとすれば「アイツは他の人間より閾値が相対的に高めに設定されてある」ということで良かろうかと思う。

別の例を挙げる。
スクワットをいきなり1000回やらされたとする。
今まで生きてきてスクワットを1000回するなどしたことはないのだ。せいぜい100回が限度である。500回でも無理だと思うのに1000回?
それなのに足をガクガクさせヒーヒー言いながらも何とか1000回をこなしたとする。
すると次からスクワットを500回することがどうということなくなるのだ。
1000回する以前は「500回でもちょっと無理なんじゃね?」と思っていたのだ。
ところが、あの1000回に比べたら500回なんぞ余裕だなと思うようになるのだ。
これはつまり肉体の限界の閾値を上げることが出来たわけである。「根性を鍛える」というのはこういうことなのだ。

で、こういうやり方に嫌悪感を示す人がいることもよく分かる。こういうことを悪用するブラック企業があるからであろう。
一度ぶっ倒れるまで働かせて、その後はぶっ倒れる手前くらいまでなら働けるよなと言い聞かせ、あとはひたすらコキ使うというホントろくでもない搾取のし方をする企業もあるからだろうと思う。
勿論、そんなものに付き合う必要はないのだ。「気合を入れる」とか「根性を鍛える」とかは自主的に行うものだからだ。そのトレーニングには自らの意思が反映されていることが条件として必要であり、強制されたり洗脳されたりして取り組むことではないのだ。
「気合」だの「根性」だので大事なのは正にここなのだ。やらされているものはダメなのだ。自らの意思でやらないとダメなのだ。ただ、正直に言うと明確にその辺りを判断することは難しい。
なので、忌み嫌われるのだと思う。
「気合」だの「根性」だのが忌み嫌われることは仕方ない。しかし、ただ忌み嫌うだけではもったいないのだ。
「気合を入れる」「根性を鍛える」を「集中する「閾値を上げる」に置き換えて可能な限り自分に取り入れた方が間違いなくプラスになると思うのだ。
これは肉体なトレーニングだけでなく、試験勉強のような分野にも応用可能だ。
勉強についての「気合」なんてのは正に「集中」であるし、勉強時間について限界と感じる「閾値を上げる」ことが出来ればいいのだ。

どうだろうか。
「気合」だの「根性」だのも案外捨てたもんじゃないと思って頂ければいいな~と思う。
何だかんだで最終的にものを言うのは精神力だと思うし。

ところで、散々に「気合」だの「根性」だの言ってるけど、お前自身は実際どうなの?というツッコミはあるかと思う。「お前は果たして根性あるの?」と俺に対して聞きたいだろうと思う。
ズバリ断言しよう。ない。

※2019年 TOKYO MX × note 「#君のことばに救われた」コンテスト へ投稿

※2019年 第一回「#教養のエチュード賞」コンテスト へ投稿

ええっ! ホント〜ですか。 非常〜に嬉しいです。