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タバコについて【たまに吸うが喫煙の習慣化からは脱出】

※おい、俺よ。喫煙を再び習慣化しないようにこれを書いておくからな。

俺は今現在、タバコをやめてから5年くらいになる。
正確にいうと、喫煙の習慣化をやめてから5年くらいになる。
お前吸ってるじゃね~かよというツッコミはあると思う。申し訳ない。
完全に禁煙しているわけではなく、年に10回前後はタバコを吸っているのだ。月に1度吸うか吸わないかくらい。
どんなときに吸うのかというと、喫煙者との飲み会や喫煙者と長い時間話し込むときにタバコを吸っているのだ。そんなときの喫煙本数は1日につきおよそ5本~20本。
従って、喫煙を習慣にはしていないが、何だかんだで年間に100本くらい、およそ5箱分くらいは吸っていることになる。

喫煙を習慣化していた頃は1日につき1箱以上は吸っていた。本数にして1日につき20本~40本くらい。
それもセブンスターのようなニコチンやタールのキツいものを好んでいた。両切りタバコ(フィルターのないタバコ)を吸っていた時期もある。

およそ20年間、俺は喫煙を習慣化していた。
およそ20年間、俺は毎日毎日タバコを吸い続けていたのである。
完全にニコチン依存症である。
因みに、今現在はニコチン依存症からは脱している(と思う)。

まず、俺はどうしてニコチン依存症になってしまったのか。
タバコを最初からうまいと感じて吸う人間は少ないだろう。俺もそうだった。
高校生の頃に周りの人間が吸っていたので興味本位からタバコを吸った。当時はタバコを吸うことが「カッコいい」と思っていた。当時のクソガキに有りがちである。御多分に漏れず俺もクソガキだったのである。
タバコを吸うと数秒でニコチンは脳に達する。煙の吸引はなんと注射より早く「一気に」ニコチンを脳へ提供するというのだ。(余談だが、吸引の威力ってのはどえらい。仕事上、酸欠や硫化水素中毒に注意を要するのだが、これらも吸引によって一気に引き起こされるのだ。)
クソガキだった俺が初めてタバコの煙を吸引した際は頭がクラクラし気持ち悪くなった。しかもゲホゲホ咳き込むし。
しかし、カッコつける為に(←バカ)我慢して吸い続けるのである。
そうしてタバコを吸い続けるうちに、俺の脳にはニコチン受容体と呼ばれる神経の仕組みが生まれてしまったのだろう。
ここから先はニコチン依存症まっしぐらだ。
ニコチン受容体はニコチンを受け取ると脳にドーパミンを供給するらしい。
そのドーパミンにより「うまい」「ストレスが解消される」「何となく落ち着く」「何となく幸せを感じる」みたいな感覚を俺は覚えてしまったのだ。
本来、人間の脳にはニコチンなどなくてもドーパミンは適量供給されるのだ。
美味い食い物を食ったとか、好きな音楽を聞いたとか、好きな映画を見たとか、何かを達成したとか、そういったことでドーパミンは適量供給され満足や喜びが得られるのだ。
ところが、ニコチン依存症になった俺はニコチンによるドーパミン供給が強すぎる為に、他の刺激ではドーパミンが得難い状態だったのだろう。
食後や何かをし終える度にタバコを吸ってニコチンを脳にぶっ込みドーパミンを供給しないと満足感が得られない状態になっていたのだろう。
とにかく一服しないと物足りないという脳になってしまったのだ。俺の脳にはニコチン依存のサイクルが出来てしまったのだ。
「タバコの煙吸引により脳にニコチンぶっ込む」→「ドーパミン供給、あ~落ち着く」→「時間と共にニコチン欠乏、同時にドーパミンも欠乏」→「ドーパミンくれくれと脳がニコチン求める(イライラする)」→「タバコの煙吸引により脳にニコチンぶっ込む」→以下繰り返し、といったサイクルである。

いやいや、依存症ってのはなかなかにどえらい。
では、どうしてニコチン依存症から脱したいと俺は思ったのか?
それはまず単純に経済的な理由である。健康云々は二の次である。
1箱500円として、月に15,000円、たいした稼ぎのない小遣い制の俺にとってはなかなかのダメージがある負担だ。ゼニをもっと有意義に使うべきだとの発想が芽生えたのだ。
それと人の中毒にかこつけて税金を貪り取る政府のやり方に腹が立つではないか。
よっしゃタバコやめたろう。5年程前に決意したのである。
実はそれ以前にも禁煙に挑戦したことがある。その時は1ヶ月程禁煙に成功したものの、とりあえず1本だけという誘惑からそのままなし崩し的に喫煙の習慣が戻ってしまったのだ。
流石に今回はそのような失敗はするまいと己に固く誓って挑んだのだ。

まず喫煙の前に減煙をしてみた。1日に吸う本数を減らす作戦である。
キセルを買い、キセルに紅茶葉を詰めてそれを吹かすなんてこともした。お香を焚いてその煙を吸引したりもしてみた。
それらの甲斐あってか、1日に吸う本数を半分にまですることは出来たのだ。2日で1箱である。
それでも禁煙には至らない。
初めて禁煙に挑戦したときもそうしたのだが、結局やめるには気合いと鉄の意思でもってキッパリと断つしかないのだ。
覚悟するしかない。キッパリと断つのだ。病院の禁煙外来などという生温いことはしたくない。
俺はタバコをキッパリと断つ日を決めて、その前日には時間の許す限りタバコを吸いまくった。気持ち悪くなるまでタバコを吸い、もうタバコいらんわと己に思わせる作戦である。実際にかなり気持ち悪くなったことを記憶している。かなりえずいた(なんだか字面が「えなりかずき」みたいだな)。

禁煙するとその後にやってくるのは離脱症状(禁断症状)である。
これがまたどえらい。
禁断症状は個人差があるようだが、俺の場合はまず、太陽の光がやたらと眩しく感じたのだ。日中、太陽が出ている時間ずっと眩しいのだ。俺はオッサンのドラキュラかと思うくらいである。
ニコチンによって光を知覚する機能が低下してそれが俺の普通の状態になってしまっていたのかと思うくらい(実際そうかも知れないが)、日中ずっと眩しいのだ。

また、やたらと眠いのだ。何度も無駄に睡魔に襲われるのだ。とんでもなくアホになったのかと思うくらい直ぐ眠くなるのだ。なのでちょいちょい仮眠をとっていた。どうせタバコが吸えないので。
禁断症状初日は運転なんて出来る状態ではなかった。禁煙の初日を土曜日の仕事が休みの日にしていたので良かったと思う。
喫煙を習慣化しているときはニコチンによって無理に脳が覚醒され、それが普通の状態になってしまっていたのだろうか。ホント眠かった。

そして、イライラである。
タバコが吸いたくて吸いたくてイライラするのだ。
だからといって、何かに当たり散らすわけにはいかない。なので、筋トレして酒飲んでみたいな体に良いの悪いのかいまいち分からないことをしていた。
イライラを己の筋肉にぶつけ、イライラをアルコールで解消するのである。筋肉質のアル中でも目指しているのか俺はという生活である。

そんな禁断症状が4日程続いた。
日が経つにつれ症状は軽くなっていった。
禁煙して1週間後くらいには、太陽の光の眩しさは落ち着き、無駄な睡魔に襲われることもなくなり、イライラもしなくなっていた。
上で述べたニコチン依存のサイクルからは脱したのである。
ところが、ニコチン依存はこのサイクルから脱しただけでは終わらないのだ。

上で述べたニコチン依存のサイクルはよく言われる「身体的依存」というやつだ。
ニコチン依存には「心理的依存」というものもあるのだ。
心理的依存とは、タバコと良い思い出とがセットとなって記憶され、そこから起因される「タバコが恋しい」みたいな気持ちになってしまう厄介な回路のことだ。
困難なことを成し遂げた後に吸ったあの時の一服、寒空の下で感傷的になりながら吸ったあの時の一服、酒でまどろみ紫煙ごしに会話したあの時のシーン、物思いにふけながら紫煙をくゆらすあの感覚、みたいなタバコを肯定的に好ましく捉えてしまう要素が俺の脳の中で出来上がってしまっているので、どうしてもタバコを欲してしまう回路が俺の脳にはあると思われる。

依存症とは身体的依存から脱することが出来ても、心理的依存から脱するのはなかなかに困難なのだ。

だからやめ続ける必要がある。とりあえず1本くらいなら…が禁煙に於いては命取りとなる。
でも、それを理解していながらも、俺は禁煙に成功してから1年後くらいに発想を変えた。
タバコを俺の中で馬刺しと同じカテゴリーに入れるという発想である。
どういうことか。

馬刺しはたまに食うと美味い。でも普段どうしても食いたくなる食い物でもない。牛、豚、鶏、魚と比べ、馬はしょっちゅう食わなくてもいい。
馬刺しはたまに食って「美味い」となるくらいでちょうどいいのである。
因みに、蟹や生食用の牡蠣、カワハギの刺身や肝なんかも俺の中では同じカテゴリーに属する。
これらの食い物と同じカテゴリーにタバコを捉えたら良いのではなかろうか、そういった考えが俺の中で生まれたのだ。

「とりあえず1本が命取り」ではなく、「いっそたまには吸ってしまえ」と考えても良いのでなかろうか、そう思ったのだ。
タバコはたまに吸ってうまいもの、そう捉えるのだ。
身体的依存からは解放されたのだから、克服することが困難な心理的依存は受け入れてしまおうという発想である。
今のところは上手にその方針でもって己を運営出来ていると思っている。

ただ、怖いのはやはり身体的依存、ニコチン依存のサイクルに再びはまることである。
ここで重要なのが「鉄の意思」である。

タバコはたまに吸っても良いが、残ったタバコは欲しいという喫煙者にあげるか、または捨てる。家で捨てる場合はもう吸えないように水でびしょびしょに濡らしてから捨てる。

何よりも「習慣化しては絶対にならない」という鉄の意思が重要なのだ。
これはもう、己をどれだけ律することが出来るのかという己との戦いなのだ。「戦い」だなんて何だが大袈裟な気もするけど。
とにかく、自分への戒めとして、ここに重要なことを書き記しておく。

※俺よ、タバコはたまに吸っても良いが、習慣化することがないよう「鉄の意思」を持て。俺よ、ニコチン依存のサイクルにはまりたくないならば「鉄の意思」を持て。

いやいや、「鉄の意思」は本当に重要なのだ。
ずるずるとなし崩し的に喫煙が習慣化しないようにする為には「鉄の意思」が必要なのである。
結局、最後は気合いとか根性とか精神力とかがものをいうのである。

最後に、喫煙の習慣化をやめて良かったことを書いておく。
まずゼニがうく。当然だ。その為に喫煙習慣をやめたのだから。
そして、食い物が美味い。タバコをやめると食い物が美味くなるとよく言われるが、それは本当だ。
禁断症状が落ち着いてから、直ぐに気付いた。同じ米、同じ味噌で作られた味噌汁なのにタバコを吸っていた頃よりはるかにそれらが美味いのだ。
あくまでも俺の感覚なのだが、タバコを習慣的に吸っている時は己が持つ味を感知する能力が2~3割程度マヒしているような状態なのではなかろうかと思う。
それは嗅覚についても言える。俺の場合、嗅覚はニコチン依存により5割くらいマヒしていたような状態だったと思われる。
喫煙習慣をやめることで味覚や嗅覚が本来のスキルの最大値にまで回復したイメージだ。回復したことにより、ニコチン依存症中には感知することが出来なかったものが感知出来るようになったと思われる。
これらのことからも分かる通り、ニコチンが脳に与える影響はきっとどえらいのだろう。
食い物が美味いという喜びの為にも俺は喫煙の習慣化を再発してはならない。

ところで俺はどうしてこのような記事を今回長々と書いたのか。

それは数日前に嫁とケンカして、そのストレス解消の為に2日間程タバコを吸ってしまったからなのである。情けね~

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