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サピエンスの限界

最近の我が家でちょいとブームな言葉がある。
「サピエンスの限界」。
使い方としては、「それってサピエンスの限界じゃね?」みたいな感じだ。
娘はほとんど使わないので、主に俺と嫁が会話の中で使う。
といっても使っている人間のほとんどは俺ではある。
それって我が家のブームとかじゃなくて、お前だけのマイブームじゃね?というツッコミはあるかと思う。申し訳ない。その通りである。

で、「サピエンスの限界」とは何ぞやということであるが、文字通り「我々ホモサピエンスの限界であろう」という意味である。

もう少し詳しい説明がいるかと思うが、サピエンスの限界について説明する前に、まずはニホンザルの限界について触れてみたい。

ニホンザルが餌の取り合いをしていたとする。それを見ていた我々人間は「アホだな、たまにはジャンケンとかで決めればいいのに。」と思うこともあるかと思う。
う~む、そんな風に思うのは俺だけかも知れない。
しかし、ニホンザルが餌の取り合いでケンカをしている様子を見たりすると、おいニホンザル、お前ら霊長類なんだしさ、もっとこう、社会を築いていく上でそれなりの秩序が生まれるような有効な方法を少しは模索しろよ、「ここは公平にジャンケンで」とかないわけ?などと言いたくもなるではないか。

おいニホンザル、自然界の中では賢いと言われている方なんだからジャンケンのようなシステムくらいそろそろ考え付けよ。
俺はもどかしい気持ちになるのだ。

だが、これがニホンザルの限界なのである。生物としての限界ではなかろうか。
俺がどれだけもどかしい気持ちになろうが、ニホンザルは餌の取り合いの際にジャンケンを考え付くことはないのである。

では、どうしてニホンザルはジャンケンを考え付かないのか。
それは、おそらくニホンザルの脳の機能に、ジャンケンのようなシステムを考え付く機能が備わっていないからであろう。
ニホンザルという種は、この種のこれまでの長い長い歴史の中で、ジャンケンというシステムを考え付く必要がなかったのだ。

生物にとっての最重要課題は種の保存である。
進化することでもなく、賢くなることでもない。それらは種を保存する為の方法に過ぎない。
生物にとっての最大の目的はあくまでも種の保存なのだ。(因みに話はズレるが、ポケモンの「シンカ」や「メガシンカ」は、「進化」というよりは「進歩」に近いと思う。)

つまり、ニホンザルの種の保存にとって、ジャンケンを考え付くという脳の機能は今まで必要なかったわけで、もともと備わっていなかったか、あるいは、備わっているが現状の生態では使われていない、ということなのであろう。

人間の俺から見れば、餌の取り合いなんぞでケンカしてアホな猿めジャンケンしろよと思うのだが、ニホンザルの生物としての現状の限界がある以上、仕方ないことなのである。

で、ニホンザルの限界を確認したところで、これから「サピエンスの限界」についての説明に入るのだが、果たしてホモサピエンスにも生物としての限界はあるのだろうか。

いやいや、そりゃ~あるだろうよと。物理的な限界があることは勿論として、当然にホモサピエンスも生物であるので、生物としての限界はあるだろうと思うのだ。

例えば、
「どうして戦争は無くならないのか」とか
「どうしてイジメはなくならないのか」とか
「どうしてホモサピエンスのオスはよくエロいことを考えているのか」とか、そういった我々人類にはいまだに解決出来ていない問題がいくつもあるわけだが、これらはサピエンスの限界が理由なのではないかと思ってしまうのだ。

多くの人間はこの世から戦争なんてなくなれば良いと思っているであろうし、多くの人間はこの世からイジメなんて無くなれ良いと思っているのではないだろうか。あるいは、エロいという悲しい男の性(さが)はホントどうにかならんかなと思っている人間もいると思う。

でもって、これらは理屈の上では実現可能なわけだ。
理屈の上では、戦争やイジメはこの世から無くせるし、男のエロさも悟りの境地へと向かわせることが出来るのだ。

しかし、現実の世界では戦争やイジメは無くならないし、男はエロいままである。
これはつまり、生物としてのホモサピエンスの限界なのではなかろうかと思うのだ。
生物として最大の目的である「種の保存」にはそれらは関係なかったということではないか。
戦争を無くす、イジメを無くす、男のエロさをどうにかする、そういったことはホモサピエンスの種の保存に影響を与える要素ではなかったと思われるのだ。
だから我が家でよく使うセリフ(あ、俺がよく言うセリフ)が出てしまうのだ。
「それってサピエンスの限界じゃね?」と。

個人個人が、あるいは一部の集団が、理想を掲げて「戦争を無くそう」とか思うことは出来るのだ。
だが、人類・人間社会全体を「ホモサピエンスという生物・種として」捉えたときに、何だか戦争やイジメなんて無くなりそうににないではないか。
ぶっちゃけ無理じゃね?とさえ思う。

ニホンザルがその長い種の歴史の中でジャンケンを考え付く能力を持ち合わせなかったように、我々人間も、生物としてのホモサピエンスの長い歴史の中では、種全体として戦争をゼロにするような能力は、残念ながら今までは持ち合わせることはなかったのではなかろうか。

ところがである。
今まではそのような能力を持ち合わせなかった我々ホモサピエンスではあるが、その限界を突破する可能性があるようなのだ。

若い頃の俺ならば、ちょびっとニヒリズムっぽく気取って「サピエンスが限界を突破するなんて無理だろうな」などとほざいていたであろう。

だが44歳になった俺は、そういったニヒリズムっぽいのとかも一周したので、少しは明るい未来を見出だすことが出来る。
いや、年齢は関係ね~や。読んだ本が名著で良かったのだ。

『サピエンス全史』という名著がある。人類の歴史全てを俯瞰的な視点からまとめた世界的なベストセラーだ。

かなり面白い本なので色々と紹介したいところだが、今回はその中の一部をざっくりと紹介すると、数千年というスパンで俯瞰的に人類を捉えてみると、人類ってのは統一に向かって粛々と進んでいるらしいのだ。
世界はグローバルという名の一つの帝国になろうとしていると捉えることが出来るのだという。

これを俺なりに咀嚼してみると、なるほど今の世の中を見渡してみれば、ネット社会ってやつは正にその流れなわけだ。
国家の枠を越えたグローバルな企業や暗号資産(仮想通貨)、グローバルな世論、確かに超俯瞰的に見れば様々なものが国家を越えて一つになってきていると言っていい。

そして、またまた超俯瞰的に見て世界は平和になってきているというのだ。
20世紀後半は人類史上、最も平和な時代だという。
核兵器というどえらい兵器を作ってしまったばっかりに、予想外にも膠着状態を作れてしまったのだ。
更にグローバル経済により各国の結び付きが強くなっており、戦争によって得られものより失うものの方が大きいと。
なるほど~。確かに今後、世界大戦レベルの戦争が起こることは考え難いではないか。

これらの事実を目の当たりにすると、おいおい、サピエンスったら、ひょっとしたら限界を越えるのかい?なんて思ってみたくもなるではないか。
それでも、超俯瞰的でなくだいぶ下まで下りてきてあちこちに細かい目線を配れば、いまだ各地で紛争はあるのだが。

そして、もう一つ紹介したい名著がある。こちらもまた世界的なベストセラー『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』だ。

この本は統計的事実に基づき「世界はどんどん良くなっている」ということを伝えている。
なんと、人類は確実に豊かになってきているし、どんどん安全にもなってきているのだ。

思い込みや物語で世の中を捉えるのではなく、データを基に世の中を捉えていきましょうよと。
そう捉えると、我々ホモサピエンスってのは、まだ完璧というわけではないが、間違いなく良い方へ良い方へと向かっているのだというのだ。

これらの本を読んでいると、サピエンスは限界を突破していこうとしているのでなかろうかとも思うのだ。
勿論、そう簡単に戦争やイジメはなくならないと思うし、ホモサピエンスのオスは暫くはどうしようもなくエロいままだと思っている。

なので「サピエンスの限界じゃね?」と、まだまだ言ってしまう俺がいるのではあるが、一方で変なニヒリズムに陥ることはなく、希望を見出だせるのも事実だ。

だから「サピエンスの限界じゃね?」の後に続くセリフは、「だから、どうせ世の中から戦争やイジメなんて無くならね~よ」ではなく、「けれども、直ぐにゼロにはならないが、ゼロにするという目標を設けてそこに一歩ずつでも向かうべきだわな。実現可能性は置いておいて向かうべき方向性は必要であろう」となるわけだ。

そして、ホモサピエンスのオスの悲しい性(さが)である、どうしようもなくエロいという情けなさからも解放されるときがいつかは来るのだと俺は期待したい。

てか、何でお前は戦争やイジメとエロいを同列に扱っているのだというツッコミはあったかと思うのだか、どうしてもこ~ゆ~アホっぽいものを入れたくなるのだ。
それが俺の限界であると言っていい。
いや、何の限界だというのだ。ホント、アホではないか俺。

それにしても、果たしてサピエンスは限界を突破することがあるのだろうか。
人類の今後の行く末をずっと見てみたいものである。
「それってサピエンスの限界じゃね?」と言えなくなる日は来るのだろうか。

俺も自分の生物としての限界を突破してあと1000年くらいは少なくとも生きてたいものである。
無理だけど。

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