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サラリーマンたちの追い詰められ方がすごいのです。


 

そう私は感じています。心理カウンセラーとして接する方だけではなく、プライベートの知人として知り合う身近な方の中にも、追い詰められて心理面で調子を崩す方が少なくないのです。

 

学校を休職して、回復に専念している教員の方。一年たってもまだ外出ができない。休職を終わり、普通科進学校の教室から職場を特別支援学校に異動させてもらったけれど、その異動先で職場の先輩からいじめにあっている、とつぶやく方。うまくいかない。うまくいかないのです。

私は、思い切って言うなら、それは、選択しているその職場がまちがっているのだ、という思考の選択肢をもってもらうのがいい、と思っています。まずそういう価値判断を脳内の選択肢にもつことを、五つのうちのひとつくらいにはせめて織り込んでもらうことが必要じゃないのかな、とは思います。自分が弱いのだ、自分の力がないのだ、自分がタフじゃないからだ、と真面目なタイプの方は思いがちですが、ましてや教員を志すような、教室では優秀だった学生歴の長い方は、自分のまさに体験している挫折を、自分自身がやさしく受け入れることができないで苦しみますが、思い切って言うなら、自分のせいじゃなくて、人のせいにして考えなきゃ、と思います。人のせい、まわりのせい、です。もちろんどんな人にでも当てはめられるおすすめじゃないのかもしれません。真面目すぎて、自分の非を探してばかりの人、自分の向上こそがこの苦境の乗り越え方としての最適解だ、とつい考えてしまう人にだけ当てはめていただきたい方法のひとつです。

 ブラックな職場で傷ついた人はやっぱりブラックな職場にチャレンジしたがる。傷ついた自尊心を実践で回復しようとする試みのひとつなんだと思いますが、心のどこかに、ここではないどこかでも生きていけるんじゃないのかな、とゆるい心を持ってもらえないものかな、と思います。ここしかない、と狭く考えるのは不合理な選択かもしれません。だれだってそこでは倒れるのだから、戦場に行ってケガしないで帰ってくるぞ、というチャレンジは、ひどいものになるからやめたほうがいい。戦争がまちがっているので、そこでケガする兵士がよわっちいのじゃありません。

しかし、この国では、そういう意見をその人に直言する人は、あまりいないものです。遠慮がちな口調ならまだしも、自信をもった口調で伝えることができる人は、実際当事者のまわりにはいないのじゃないでしょうか。よくいえば、本人の意向を尊重して、本人がそうしたいならあまり強くは言わない、というやさしさですが、むしろ他人のことに口出ししてひょっとしたら後から文句言われたり、あるいはひどい場合は責任を問われたりするような目に巻き込まれたくない、という冷たさが、この産業社会には蔓延しているのじゃないかと私は感じます。春ごろに紹介した心理テストの国際比較でも、この国ではもはや良い意味での「おせっかい」が失われつつあることを示されています。

「退却は有力で有効なすばらしい選択肢なんだよ」と口にしてくれる人がいないもんだから、そんな考えは誰も持っていないのだ、と当事者は誤解したりもします。頑張ってあくまでも戦場にむかうのが世間のみちだ、と誤解もします。認知が歪むことにもなります。

あるいは、残念ながら、優秀な人ならではの特徴のひとつとして、世間が広くないのかもしれない。体験している幅が広くない。あるいは、知り合い、友人、なまに触れる人たちのタイプが似通っている場合、その人たちの生身のアドバイスに多様性が豊かじゃない。中学・高校・大学と優秀な生徒として過ごし、資格試験も採用試験も頑張って優等の成績を得て、挫折や休憩、人から見たらさぼりやな負けとみられかねないような猶予をもたないで就職まで突っ走った人の周りには、やはり同じようなまじめなまっすぐな人たちばかりがおられるものです。いや、そうでなくても、人は似た考えや似た人生へのイメージを持った人たちと同じエリアに過ごすほうが居心地よく感じるものなので、世間は普通「狭い」と言われるような同類の群れの中で過ごすほうが多数派じゃないかと思います。情報社会と言われ、多様な情報に触れることができる時代なのだと言いますが、たとえばネットの社会でも「フィルターバブル現象」とか「エコーチェンバー現象」というような、自分の考えに似通った情報ばかりを人はかき集め、引き寄せてそれを世界全体の意見だと誤解しがちなのだ、ということが言われるようになってきています。心理学の世界でも「確証バイアス」という用語があります。現在の自分の考えを確証し、支持するような意見、言論のほうをひとは偏って好む傾向があることは明らかにされています。ですから、いわゆる「世間が狭い」状態というのは、これだけ情報ツールが発達した時代にはむしろ以前より普遍的に見られる状態だと言っていいのかもしれません。

教員生活だけが生活だ、サラリーマン生活だけが世界だ、生産性のある存在だけが勝ちなのだ、と思い込んでる知見の狭さを、私たちは警戒しないといけないと思います。言い方を変えれば、教員生活をやめたら人生からの脱落だ、給与生活者からドロップアウトしたら堕落だ、落伍者だ、と思い込むような、職業や生き方の多様性を許容しない差別意識が、自分に向かって牙をむいているのかもしれません。

私自身が、公認心理師という仕事に出会うまでにいくつも退職歴、転職歴があります。転職や退職、そのためのひとやすみ、ふたやすみ、は回復不能な転落だ、とは決して思いません。転職や退職の前後やその真っただ中に誰もが持つ微妙な感覚、繊細なきもち、さみしい状況をたくさん知っていることにかけては自信があります。そして、国民総生産GDPに貢献するわけでもない芸術の営みや、空の高さをあじわう時間、雲の美をめでる時間、そんなものに貴重なたくさんの時間を費やす生活をこそ、私は人類のもとめる価値ある生活なのだと思います。わたくしは、そういう一派ですぞ、とここで明言しておきたいと思います。

 多様な価値観を持つことは、心にあそびを与えます。あそびのある心は、多様な自分のありさまを許し、愛すのでしょう。しかし今の産業社会の中では、意外と容易なことではありません。私は思い切って、「私は偏っていますよ。信じないでくださいよ」と前提したうえで、少数派の意見を紹介することもしています。人生のまんなかに生産性ではなく、あそびをもってくること。唯一の正解だとは考えませんが、唯一の正解が「生産性だ」と考えるくせを手放すためには、いったんもってこようじゃありませんか。今日も私はそうはなしかけています。


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