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自分との約束を思い出すとき


ときどき、夢見るように自分の手をかざして見つめることがある。
この手が、みんなみたいにきれいだったら。
白くて、傷一つなくて、大写しになっても写真に耐えうるような手だったら。
きっと、結婚指輪がよく似合うんだろう。


わたしは物心ついて以来一度も、両手からアトピーの傷がなくなったことがない。正確には違うのかもしれないけれど、わたしの手が汚くなかった時のことを、わたしは思い出すことができない。

自我が芽生えてからずっと、自分の手は汚いと思っていた。入れ替わり立ち替わり現れるひっかき傷の血の赤と、傷痕の色素沈着の黒。いつも痛くて痒いのがわたしの手だった。もともと肌の色が浅黒いのもあって、わたしの手はいつでも黒くて傷だらけで萎びたおばあちゃんみたいな手だった。

自分の手を見るのがきらいだった。学校の机の上になるべく手を乗せない。制服の袖からなるべく手をたくさん出さない。


自分の手は汚いもの、という分類をぼんやり抱えたままいつのまにか二十歳を越えて、女友達はみんなネイルの話をしていた。
ネイルってそんなにみんなするものだったっけ。みんなよく、わざわざ手に視線を集めるようなことができるなあ、
もしかして、「こんな手」なのってわたしだけだっけ。

気が付いたらいつの間にか、年頃の女の子はみんな、白くてすべすべな手を持っているのが普通のようだった。


ネイルがしたいわけではない、と思っていた。
小さいころから、爪を伸ばすことへのタブーがわたしの人生の多数の局面を通り過ぎていて、そもそも興味は湧かなかった。アトピーで痒い身体を傷つけないために。ピアノやバイオリンを弾く邪魔にならないために。女性の恋人を傷つけないために。

わたしにとって手は、飾り立てるものではなく、生活に必要な最低限の仕事さえこなせればいいものだった。手は手段であり、人生の表舞台に躍り出るものでは到底なかった。


でもあるとき、ふと、こんな手じゃ結婚指輪が似合わないな、と思った。


当時恋人もいなかったのに、いつかのその日までにはきっと治そう、と思い、その時初めて、そろそろ自分を大事にしてもいいんじゃないか、普通の人と同じになろう、と思った。

皮膚科の薬を「自分を大事にする」というあたらしい目的で一生懸命に毎日塗って、傷が一個もない左手を初めて見たとき、たかがそれだけなのだけど、涙ぐむくらいうれしかった。

いかに自分の手を、自分をないがしろにしていることに無自覚だったか。


去年の1月、年始の目標の中に「指輪を身に着ける」を入れた。皮膚を大事にして、傷に拘っていた手を綺麗にして好きになるため。

指輪なんて、わざわざ手に視線を集めるもの、もちろんつけたことはない。
アクセサリー売り場に立って、これをいつかつけるんだと思うと、高いビルから下を見下ろすときのように指の先がヒュッと冷たくなって、ドキドキした。


わたしは、ネイルをしている人のこと、指輪をしている人のこと、いつも、いつも、目で追っていたんだ。あの人は、手がきれいな人。わたしは、そうじゃない人。
わたしもそっちに行きたい。みんなと同じになりたい。


ひとつだけ買った指輪は、おまじないみたいに、外出するときに指にはめる。自分のこと、大事にしようね、と、指輪のはまった手をだいじに見つめながら、自分ともう一度約束する。


例えば、お風呂上りの保湿クリームを塗りながら自分に触れるとき。
化繊のフリルの付いたブラジャーではかぶれてしまう肌のために、代わりに綿のシンプルなブラジャーを身に着けるとき。
この身体隅々までわたしのもの、傷つけたりなんかしないからねと自分に約束する。

きみは今日もきれいだよ。
ありがとう。

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自分らしく生きる女性を祝福するライフ&カルチャーコミュニティ“She is"の1月の特集テーマ、#Dearコンプレックス のVOICE公募にて取り上げていただいた文章です。
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