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ただの散歩のつもりだったの

ただの散歩のつもりだったの。

あなたは、世界とセックスしたことがあって?
私はあるわ。とてもとても、綺麗だったの。私、今私が25歳の女の子でよかったって、ほんとうによかったって、アスファルトの上を走りながら(子どもの頃みたいにうまく走れているかしらとこんなときにも気にかかりながら)、思った。

桜の花びらが毎年記憶にあるよりも白いのは、夜空に映える為なんだね。私を祝福するためだったんだね。今夜はすべての答え合わせが一斉に行われたような気がしたよ。

月が殊更に綺麗だったの。月を「見て」いるだけでいつまででも満たされていられるような気がして、でも本当は大人が道端にぼうっと突っ立っていたら不審に思われるからだめなんだけれど、でもそれが若い女の子ならまだ許されると思うからよかったと思って、銭湯の帰りにじいっとぼうっと月を見ていた。あんまり永遠に退屈しないのが不思議で面白かったから、晩御飯の後にもう一度、あなたを見るためだけに外に出たのよ。私、全身紺色の格好をしてた。お気に入りのジーンズに、トレーナーに、もう少し寒い時期に着ていた紺色の素敵なコート。外は肌寒かったから、少しでも長くあなたを見ていられるように。

信号のそばでも、あなたは一番輝いていて感心したけれど、あなたに向かってただ近づくように歩いていって、信号が背後に遠くなったとき、やっぱりあなたはもっと綺麗だった。なるべく空がひらけたところに行きたいと思った。

いつも時々ぼうっとしに行っている公園への道は、あなたと一緒だからかいつもより遠くなかった。わたしはあなたを、電線の隙間から眺めたり、どこかの細長い建物の丁度真上に乗せたりして飽きなかった。
公園には先客がいて、ちょうど私がやりたかったように木の下のベンチに仰向けに寝転がっていて、そうだよね、そうしたいよね、と思った。誰だって、夜の公園に来たら大きな桜の木の下のベンチに寝転がって、桜をすかして美しい満月が見たいでしょう。

ねえ、やっぱり桜だったんだね。花が咲いていないときの桜の木は何にも主張がなくて特徴がなくて、The 木、みたいな風貌をしているから、春になるまでわからないんだ。公園のあの木が街灯に照らされた美しい夜桜になるなんて。まるで種明かしをされた気分、君の答えは合ってたよと言われた気分だよ。きみが月の美しい夜に、月に惹かれて歩いてきたのはこれを見せたかったから。きみがうつと戦いながらなんとか気を紛らわそうと、日向ぼっこに通っていた、この公園でちょうどいい日よけになってくれていた木は桜だったんだよ。

桜があって、月があって、それを同時に見られるだけでとても満足だった。公園では寝ている男の子のほかにも大学生みたいな男の子2人がブランコで談笑していて、だからわたしは公園の中には入らずに隣の駐車場で月と桜を交互に見ていたけれど、それでよかった。

やっぱり成人女性が荷物はポケットの中の家の鍵だけで月鑑賞をしているのはちょっとあやしいよね、と思って男の子たちの死角に入るように自販機の陰にほんのすこしだけ移動したらさ、桜の花びらが吹き溜まっているのが白々とみえたんだ、アスファルトの地面に。

たくさん溜まってた。桜の花びらが川とか地面にたくさん降り注いだりして白く染まっているのって綺麗だよね、と前から思っていたけれど、いま手に触れられるところに、これから撒く用に準備してあるたっぷりの花吹雪みたいなのがあってさ、思わず手に取っちゃった。少しつめたいんだよ、桜の花びらって。それでさ、ふかふかなの。ひとつかみ取って投げたの。上に。夜空に。

ねえ、今までに見た一番綺麗なものって何がある?
それを考えちゃうくらいにさ、すごく、すごく、綺麗だったんだよ。紺色の夜空にね、青白くてピンクの花びらが舞ってね、光って見えた。スローモーションに見えた。わたし花びらを浴びたの。あっこれは祝福だと思ったね、花びらを浴びるのってこんなに幸せなんだ、だからみんなは花嫁さんに花びらを浴びせるんだね。わたしもさ、それをやるなら絶対に紙吹雪や米なんかじゃなくて生花の花びらを浴びたいよ。それをやるためにたとえ何千の花の命が絶たれるとしてもさ、だって、それくらいに。世界からの祝福に感じた。

何度も何度もつかんで投げた。風が吹いて、花びらがわたしにかかったり、かからなかったりした。わたし、うれしくて笑ってたと思う。紺色のコートに張り付いたたくさんの桜の花びらが誇らしかった。このまま家に持って帰りたいね。そんなことは無理だから、わたしは気の済むまでわたしの祝福を続ける。花びらの降りかかり心地って、やさしいし、落ちる速度もすこしゆっくりなのね。一緒に砂や砂利を投げあげちゃったりして、それらが降ってくる痛さとのギャップにきみの優しさを思った。

人生でこれよりうれしかったことある?風が気持ちよくて、きれいな淡いピンクの花びらが頭から降り注いで、夜空はそれを白く光らせるための背景みたいに濃紺で、わたしは映画のヒロインみたいだね。わたしお花とかが安易に好きな女の子でよかったって思ったよ。
男の子たちはわたしの花吹雪あそびに気づきもせずに相変わらず笑い合っていて、それで世界は平和なんだと思った。地面にだけはわたしが遊んだ跡が散らかった花びらで記録されていて、それでわたしは満足だった。

空にはとびきりの月が光っている。わたしはいま世界の祝福を受けて、とびきりに体が軽くてすぐにでも踊りだせる心地。手を空に伸ばせば光る月とわたしの手が重なる。世界の答え合わせが今日わたしのために行われた。たまらない。わたしは踊れない代わりに、走らなければならないと思った。家まで。全速力で。
大人になってから走り方なんて忘れてしまったよ。ヒールに慣れた足はたまのスニーカーの身軽さに驚くよ。今日は重い荷物もない。素足に履いてきた白いスニーカーで、走った。走った。自分の全速力がどのくらいなのかも、大人になってわからなくなってしまったよ。大人が道を全速力で走るとそれだけで変な人になってしまうから。
息が上がる。久しぶりに肺の全部に息を入れる。全身の筋肉をフル稼働する。全力で走ると捻挫しそうで怖いんだよ。でも今日は、走らなければならない。わたしのなかに込み上げてきているものを詰まりなく外に出すために。余力があってはいけない。

たまらなかった。いつぶりかわからない全速力の走りをやめて、残りの道を歩きながら激しい呼吸はまだ止まらなくて、わたしは泣き始めていた。こんな、世界とセックスするような日が、人生にはあるんだね。ドラマみたいな出来事は、現実にその切れ端が存在するから、ドラマに描かれるんだね。わたし、いま、25歳の女の子で、ほんとうによかった。

この激しい息がおさまらないうちに、書かなければ、書かなければ、と思って、コートのまま涙のままパソコンを立ち上げて、指の間からこぼれそうな今日の夢をできるだけ拾って書き留めた。

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