復帰70チャレンジ その6「空襲、敗戦、台風、年が明けたら行政分離に天然痘にチフス流行(昭和20年春~昭和21年春)」

12月25日の復帰記念日まであと65日。
私事ですが今日は友人からお誘いを受けて裏千家の大宗匠、千玄室さんの講演を聴きに行ってきます。なんと御年100歳の元海軍特攻隊員。
現在も毎朝行う「海軍体操」が健康の秘訣だとか。
戦時中鹿屋の旧串良海軍航空基地に所属されていた事から、鹿児島や奄美にもコロナ以前から何度もご来島されています。

千玄室さんが死を覚悟して、鹿屋で特攻命令を待機していた頃、昭和20年春からの奄美はというと…とにかく「災厄」の連続でした。
時系列で追うと

昭和20年4月 名瀬の市街地、同月20日の空襲で9割焼失
四月二十日(金) 朝空襲、午前九時ごろ、漁業会方面から出火、古見本通り一帯数千戸焼失した。午後五時になって、海岸の末広旅館が火をふいた。午前の空襲で打ちこまれていた焼夷弾が天井裏でくすぶっていたもので、警防団が出動したが、火勢に押されて消火できず、その夜金久方面数千戸が全焼、一日で市街地の九〇パーセントが灰燼に帰したのであった。

改訂 名瀬市誌 1巻p.672
空襲を受けた名瀬市(昭和20年)
奄美市フォトライブラリより

昭和20年8月15日 終戦
昭和20年9月17日 昭和の三大台風「枕崎台風」通過

台風経路図

昭和20年秋以降 戦前に台湾や満州に移住していた人達が行き場を失い、故郷である奄美群島に引き揚げてくるも建材などの物資がなく慢性的な家屋不足状態。

戦争は終わったのだ。とにかく家へ帰ってみようと、あちらこちらの山の疎開先の横穴から、かにがはいでるように町へおりていった。人々はお互いに無事であったことを喜びあいながら、木ぎれや板ぎれを拾い集めて、焼跡の屋敷に風雨を凌ぐバラックを建て始めた。それも数えるばかりであった。山の疎開小屋からまだもどれぬ人々が多いまま、終戦の年もくれていった。

改訂 名瀬市誌 1巻p.679

なお終戦後の労働報酬は、「焼けたトタン」「焼けた釘」など。
とにかく建材をいかにして手に入れるかが重視された頃でした。

(終戦から二年後の)町の家々には空襲の木切れや厚紙で壁や屋根をふいているのが、まだ見受けられたり、山から切り出してきた椎木でたてた家屋や、ドラム缶を利用した露天風呂が見られた。

改訂 名瀬市誌 1巻p.742 


空襲の危機は去ったものの、相変わらず本土からの物流は以前のようには復旧せず。
にも関わらずどんどん増えていく人口。
それでも「戦争は終わったんだし、どうにかなるだろう」と楽観的に考えていたシマッチュに突然の知らせが舞い込みます。

昭和21年2月2日。
北緯30度以南の島々は、日本本土からの行政分離開始。
以降、吐噶喇列島の口之島から南は、米軍政府の統治地域となりました。

更に昭和21年2月、島内で天然痘の感染者が出ます。
南海日日新聞設立者である村山家國氏の「奄美復帰史」によると


最初の疑似患者…本土からの引き上げ世帯の幼児。大島警察署に報告が入った時には既に家族6人全員が発病、死者1名。

疑似患者は宇宿・喜瀬・赤木名に蔓延。
大島署、龍郷村赤尾木から以北への交通遮断。
3月に入り、疑似天然痘が真性と判明。
米軍指揮による広域防疫班が組まれ名瀬町中心に防疫体制が敷かれる。

名瀬・龍郷・笠利間の交通遮断。
名瀬・大和村・住用・古仁屋方面への出入りも厳重規制。

米軍医グリーヒン中尉が笠利村に急行、応急診療に当たったが、土盛・和野にも広がり罹患20余名、死者7名。

3月中旬には名瀬町にも3名の患者が発生。4月に入ると三方村1名、喜界町3名、亀津町6名、東天城村1名、天城村32名、伊仙町8名と蔓延、沖永良部島にも飛び火。
罹患者数は百名を越え、死者30余名。
さらに発疹チフスと腸チフスが流行。

「奄美復帰史」より抜粋(村山家國)

新型コロナによる令和2〜4年の感染対策でも相当大変でしたが、医療施設もワクチンもままならぬ終戦直後の奄美。
致死率の高い感染症流行による不安はどれだけのものだったか。

そんな時期を歯を食いしばって生き抜いてきた方々、そして令和のコロナ禍を生き延びた現在の80代以上の記憶が、もっともっと今の奄美群島内の若い世代にも伝わるといいな、と思う日本復帰70周年の秋です。

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