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前進か、現状維持か

今日は期日前投票に行きました。
先月の衆院選に比べると絶え間なく市民の皆さんが投票しに来てました。

首長選挙の直前に選挙ネタを書くのはどうかな…と思ったのですが、まあ気になったら他の事を書ける程の器用な頭してないので。

奄美市、旧名瀬市の戦後市政の中でも特徴的なのは、やはり復帰運動が盛んになった頃の首長選挙でしょうか。

泉芳朗氏はその頃すでに奄美大島日本復帰協議会の初代議長として断食祈願や島民からの署名回収など、様々な活動を行なっていましたが
「日本政府は戦勝国アメリカの言いなりになるしかないだろう、どうせ我々は負けた側だ」と、諦めから消極的な島民もいたり
「限られた地域内でどうにか金を儲けて生きていくしかない。そのためにはアメリカに逆らおうなんて馬鹿げてる」という島民もいたり。

その頃、日本国憲法ではすでに個人の権利として「言論の自由」が定められていたにも関わらず、奄美では戦前ほどではないにせよ、反体制的な意見を述べようものなら、かなり厳しく取り締られていました。

これは別に奄美に限った話ではありません。
1940年代の戦時下でコミュニストにより西側諸国の政界周辺で多くのスパイ活動が判明してから、1950年代のアメリカではとにかく社会主義・共産主義への反発が強まり、それが奄美でも如実に表れたと言えます。
アメリカの国務長官を務めていたジョン・ダレスは特に強烈な反・共産主義者であり、弟でありCIA長官を務めたアレンと共に表裏一体となって米国周辺の共産主義者を取り締まりました。

そういった背景があったからこそ、奄美の復帰協議会では最初から「反米活動ではないし、特定政党の活動ではない」という姿勢を積極的に打ち出していました。

結成時からとにかく非暴力、法に則り民主主義に従って堂々と運動を行う事を重視していた復帰協議会は「日本復帰は一部の島民の願望ではなく、多くの島民の共通の悲願である」事を示すために、首長選挙に打って出ました。

それが昭和27年9月の名瀬市長選挙です。
当時47歳の泉芳朗氏は見事、選挙に勝利し、名瀬市長となりました。
「これは一部の政党活動ではなく、多くの名瀬市民も日本復帰を願っているという、住民側からのはっきりとした意思表示だ」と更に復帰運動は加速していき、
群島外においても国会や政府の中で住民の意思として受け止められるようになります。

ここまでハッキリするのも珍しいですが、そうでなくとも自分が住まう地域の首長選挙は、住民の意思表示を行える大切な機会です。

前回、2017年の奄美市長選挙は投票率 48.06%と半分以下でした。

今回はどうなるのか。
前回よりは地元政治への無関心さが少なくなると良いな、と願っております。

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