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岐路亡羊の只中で。

新年から沢山のことが世の中としても、個人の範疇としても抱えきれないものがありすぎて、苦しくて、でもそれをしょうもないと片付けて見えないふりをしている自分を大いにいて、結局襲われるのは「当たり前」にずっと執着していたい、未来を見つめない怠惰な自分だ。

ずっと、今まで目を逸らしてきたとか、見えないふりをしてきたとか、そんな言葉で自分を観察してきたところがあるが、そんなことも実際なかっただろうと思う。

これまで自分の出来る範囲で挑戦はしてきたし、本来であれば背負う必要のない意味の分からないトラブルについても今、関わってそれを目の当たりにして生きているつもりだ。でも、そんな私は恐らくずっと自己犠牲精神が強くそれで「搾取」とまではいかない並みならないものを、引きずって,闘ってきたんだろうと思う。その精神的な痛みや苦しみは今まで感じたことのないものだったけれど、それでもそこから離れず、自分なりにマイペースながらに向き合った理由があるはずだ。なんで、私はこのコミュニティに、こんなトラブルに巻き込まれ、時間を取られ、本望でない活動に時間を割かなればならないんだろう。何度も思った。そして立ち返った、今の自分を形成している原点、得られたもの、そのときの覚悟。これは必然的なことだったといえるかもしれない。2017年から決まっていたことだったのかもしれない。それでも何を憎めばいいんだろう。対象がない。あるけど、それは本質的なぶつけられる宛てかは分からない。そこに対抗する明確な知識も発想力もバランスよくアウトプットできるだけの力量がない。ないものだらけの中で、ないことだけを自覚した果てでそこに目を向けるということでしか対処できなかった私達は、それぞれの蟠りを抱きながら交渉し続けるしかなかったんだろうな。「無知の知」故に私たちは自らに問い続けることしかできなかった。

フラッシュバックした記憶の断片に今の自分と過去の自分の狭間にある成長を探して、どのくらいの距離を走ってこれたか想起する。それに気付けなかったり、気づいたとしても、大した成長も気付きもないように感じたときの虚無感や若干の絶望に形のない何かを私はただ求めている。

これからの1年間は来年の今日に後悔がないように、心を殺しながら色々なものを押し込みながら、それでも自我を保ちながら過ごしていくことになりそう。私には背負いきれない責任が最近は特にものすごく負荷がかかって、本当に逃げ出したい。現実逃避したい。向き合えば向き合うほど、現実の理想のギャップがあらわになって自らの弱さに対峙しなければならないから。そして、現実の冷酷さと自らが立たされている世界の流動性と不可思議に虚構を見る。全てが大切で全てに向き合おうとすればするほど、それらは全て面倒な重りとして精神を深く切りつける。半年後、自暴自棄になって全てを投げ出してないか少し想像すると身の毛がよだつ。きっと、今までのようにはいかないし、今までのように弱くもない自分だろうけど、それでもなお苦しむだろうし、悲観的な考えやたらればにふけることもあるだろうし、人と人とを同化して捉えてしまうこともあるだろうし、ニヒリズムにもなるかもしれない。だって、声を上げたってどうせ世界は変わらない、何も変えられない。そんな風に錯覚する日のほうが圧倒的に多い。

けれど、大人はいう。ニヒリズムを回避せよ、と。
そのために、金魚鉢の法則や予言の自己成就といった概念/論理を持ち出して己に課すよう指導する。そんなものは知識だけで十分だ。

丁度、2023年の1月5日に私は下記のように綴った。

言葉は魔法のようだと思った、3年前。
私はもっと、言葉を丁重に扱う人でありたいと思う。もっと、自分の描く景色を鮮明に表せる人になりたいと思う。
今は、苦しいほどに、昔のように、言葉を紡ぐことができなくなってしまった。あの夜に幾度流れた涙は、出てこなくなってしまった言葉の数だった。
それでも、あの場で、あのときに、聞き届けてくれた人がいて、肯定してくれる誰かがいて、私は、本当にうれしかった。

感覚というものは時間が経つにつれて、すぐに廃れていくもので今強く言葉に対する執着があるかといったらそうでない。1つのツールであり、生き物であり、個人語にすぎない。魔法なんて、空想じみたファンタジックなものなんかじゃない。というか私は日本語の扱いが雑でまともにしゃべることすら出来てない。さらに言うなれば言葉は暴力的だ。人を簡単に傷つける。私の生存バイアスに偏向しているから。

ここ数日間で思想も精神も見えてくる景色の解像度も、どんどん変化している今。来年の1月5日にはどんなことを綴るだろうか。

もし、私たちは最後の審判を受けることなく、何度も自らのこの人生をループすることになったら私は今と同じ道を、そしてこれから迫られるであろう選択の数々を手に取っていくんだろうか。

すべての神々は死んだ。いまや、わたしたちは超人の生まれることを願う。

積極的ニヒリズムとしてこの世で生き抜くことでさえも、今の私にとっては自己啓発のようで気味が悪いと感じてしまうけれど。


脈絡の崩壊した文章の最後に。

22歳までのモラトリアム期間、私は精一杯背伸びをして、身の丈を知りながら生きていこうと思う。そして、聞きたいことだけを聞いて、話したいことだけを話して、それを身に着けた先で待ち受ける未來を責任持って引き受けていこうと思う。強く、したたかに。

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