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続続続・頑張れなくなったときに気付いたこと。

「紡さんは正解しか口に出したくないんじゃない?」
先日、一番付き合いの長い友に言われた一言がすとんと胸に落ちてきました。さらに、
「理性と感情が渋滞してるように見えるよ」
とも言われまして。その時は返事を考えることでいっぱいいっぱいでしたが、電話を切って改めて咀嚼してみると、その通りかもしれない、と首肯してしまいました。

「頑張れないことがしんどい」から始まり
→「でも頑張れないことは永遠には続かないだろう」
→「今は過渡期なのですぐに頑張れなくても仕方がない」
→「いやそもそも頑張ることが自分の価値の全てではないのでは?」
という状況を経て、ほんの少し「ま、いっか」という姿勢で自分と向き合ってみようか、というところにきたのですが。

じゃあ、悩みから解放されてハッピー!なのか、と言われると、残念ながらそうではなくて。
未だに自分の中にあるもやっとした部分は心の中にどんと居座っております。
「自分の人生は自分のものだよ」
と言い放つ友を尊敬している身としては、どうして自分はこうも息しやすい環境を整えてやれないのかと無駄に凹んだりします。

頑張れない時に色々と考えてしまうのは、あまり得策ではないことは承知の上ですが、どうにか次に進む活力を生み出すために、頑張れない時に深く自分との対話をしたがるようだと、この文章を書いていると気付かされます。
もしよろしければ、悩みもがく思考の渦にお付き合いいただけたら嬉しい限りです。

私はつい最近まで、頑張ってきた経験とそれに付随する結果によって自分を評価してきました。
しかしそれでは、頑張れない自分には価値が無くなってしまうわけで。そんなのこの先の人生しんどすぎるわ!となって、ようやっと「頑張れないなら、今はそれでもいい」と受け入れて楽になった反面、そんな状態の自分を他人から褒められると「いや…そんな頑張れてないのに…」と申し訳ない気持ちになる紡です。
表面上は「ありがとう。嬉しいよ」と口にするのですが、それも本心ではないので、嘘をついているような気持ちになって後ろめたい気持ちにもなります。
「なんで?そのまま受け取っとけば良いだけじゃん。申し訳ないっていうのが分からない」
と友は言うのですが、自分でもよく分からなくて、その場ですぐに明確には答えられませんでした。でも、「そう思ってしまう」のです。

じゃあ、戒められたいのか、というと、別にそうではありません。
逆に否定されることを人一倍恐れていると思います。
自分はおそらく承認欲求が大きい人間です。他人に価値を貰わないと、社会という集団の中で自分が存在することに不安を覚えてしまいます。「私がここに居たい」よりも「私はここに居て価値があるのか」と考えてしまうのです。私にとって褒められること、つまり認められることは、集団にいるために最低限界必要とされていることで、特に自分の価値には結びつきません。逆に言えば、褒められないことは認められないことで、集団の中に居ることが辛く感じるようになってきます。
客観的に見れば、他人からの評価、という曖昧なものに振り回されている人間だと理解しています。当然人間同士、十人十色。合う合わないがあり、全員に好かれることも不可能ですし、全員に嫌われることも不可能だと思っております。全部が全部自分を認めてもらうことなんてあり得ないことは分かってます。他人からの評価を求めているくせに、他人からの評価を素直に受け取れない、という矛盾が生じていることも理解しています。

そこまで考えて、ふと気付きました。
noteでそんなことを悩んだことはあっただろうか、と。
誰からも「スキ」されない記事を書いてもnoteで居場所が無いと思ったことはないし、いただいた「スキ」については数の大小にこだわることなく、素直に「ありがとうございます」と受け入れることができています。実生活と一体何が違うのでしょう。
そこで冒頭の一言に戻ります。
「紡さんは正解しか口に出したくないんじゃない?」
なるほど。noteに載せる文章は、私の本音を対話よりも時間をかけて形にしています。
だから、それに対してどうこう言われても、リアクションが無くても、私は傷つくことはないのかもしれません。綴る言葉は「ほんとう」のこと、つまり私にとっての「正解」なんだと思います。
でも、実生活だとそうはいかないわけで。集団での言動は、私が居場所を勝ち取るためのものであって、心のどこかでそれは「不正解」であると判を押しているんだと思います。
私を知る周りの人が私を褒めてくれるのは、褒められるべくして褒められるものであって、誇れるものでも、自分の価値を高めるものではない、と、私は思ってしまうのです。
「紡さんは理想が高い完璧主義者のきらいがある」と友人は言います。
そう言われると「いや、そんな全然だよ…」と思うのですが、そう見えているんだな、と思うと、自分が当たり前にしたいことが、周りからは理想が高いと言われる、つまり今の自分はそんなにも劣っているのかと解釈してしまい悲しい気持ちになります。(まあ、それも私が思っているだけなんですが)

私の中に「正解」がある限り、それに反するものは受け入れられない状態ーつまり、自分では認められない部分褒められても「なんで?」という気持ちが先行してしまう。それが今の自分のようです。なるほど。
そして次の言葉がまたぐっとくるわけです。
「理性と感情が渋滞してるように見えるよ」
理解が必ずしも納得にはならない、感情を掌握することができていないようです。色々自分のダメなところや、「こうした方がいい」という考え方は理解しています。人からの好意を無駄に拒否するのは、相手を逆に嫌な思いにさせることを「理解」しているので、褒められたら「ありがとう」と答えるわけです。そう考えると自分はとても非人間のように思えてきます。そんな積み重ねをしているから、間違わないように生きているから、他人の言葉を素直に受け止められないのかもしれません。
今まで頑なに認めたくなかったことなのですが、私は人との関わりが根本的に苦手なんだと思います。

しかしながら、苦手だから誰とも関わりません、というわけにもいかないので、社交性を学習して、日常の中で実践していることが、また理性と感情がかけ離れていく原因の一つなのだ思うと、不器用な自分に嫌気がさしてきました。
もっと感情に素直になればいいじゃないと自分でも思うんですが、拗らせている人間が、はい、分かりました、と明日から変われるほど簡単な話でもなく。自分の感情より、「こうあるべき」という理性が優先されることが骨の髄まで染み込んでいるんだと思います。表に出せなかった感情を蔑ろにした結果、自分の感情がよくわからない、という自体に陥っているようです。私は私が思ったことをもっと大切にしないといけないな、と幼い子供のようなことを思うわけです。

さて、根強い「こうあるべき」精神はどこからきているのでしょうか。よくよく考えてみると、その根っこには、他人を傷つけたくないという想いがあるようです。自分が関わった人が、自分のせいで悲しい思いや辛い思いをすることが耐え難いと思ってしまうのです。幼い頃、傷つけようなんて微塵も思っていなかったのに、相手を傷つけた経験がトラウマになっているのかもしれません。物事の二面性に気付いてから、絶対に良いものも、絶対に悪いものも無いのだということを知ってからその気持ちはさらに深まります。なので、経験が浅い中で自分が行うべき「最適解」を「こうあるべきもの」として感情よりも優先されるべきものとして扱っているのかもしれません。感情任せの言動で人を傷つけることがこわいのだと思います。このことについても絶対に傷つけない、ということは無いとは理解していても、ゼロに近づけようと、ゼロに近づけるためにはどうしたらいいのか、ということを無意識に考えてしまうのかもしれません。
それは結局は自分のためなんだと思うと、なんと利己的なんだと自分を好きになれない原因にもなってくるわけですね。利己的に他人と相対する自分は浅はかである、と思ってしまうのです。他人との向き合い方が下手なんでしょう。冷たく言えば、当たり障りのない関係性を築くことはすぐにできるけれど、本当の意味では相手に興味がない人間なのかもしれません。

少しずつ思考が解けてきたところに、
「紡さんは自分の感情に鈍感なんだと思うよ」
直球どストレートの言葉が追い打ちをかけてきます。
確かに、良いとか悪いとか、好きも嫌いもひとまず置いといて、表向きの「正解」を先に考えてしまうことが多いように思えます。自分の中にある「正解」を評価されたいくせに出すことができず、その場に対するこうあるべき「正解」を評価されて戸惑う、という自業自得な状況を生み出している訳です。
なるほどどうして不可解な。

そしてここまで考えて思うことは、なんと私は生きているだけで精一杯なんだろう、ということ。自分のやりたいことのために色々しなければならないことが山積みなのに、明日のことを考えるだけで途方もない漠然とした不安がのしかかってきます。
ましてや1ヶ月後、1年後のことなんてもってのほかで、毎日ご飯を食べて、シャワーを浴びて、掃除して洗濯して、ちゃんと生活できているかと問われるとあやしいくらいです。
ちゃんとした生活さえできていないのに、プラスαの夢を追いかけるということや将来設計だとかなんだとか考え始めると、もうなにも頑張れなくなってしまうのです。
そもそもその「ちゃんと」も私の中の「正解」なので、友から見たら自分で自分を苦しめているように見えるのでしょう。
要するに私が私を許すことができるのかどうかー今情けなく感じている自分をそれでいいよって言えるのかどうかなんだと考えます。
それができないから、いまこうやってしんどさを抱えているんですね。拗らせてるなぁ。

まずはとりあえず、自分の気持ちにもう少し敏感に寛容に寄り添う練習をしていこうと思います。私が好きなこと、私が嫌なこと。そう言った素直な感覚の積み重ねをもっと大切にしていかないと、この先ずっと、なにも信じられず、他人からの評価のみに振り回される人生が目に浮かんできます。

トライアンドエラー。
自分との向き合い方はまだまだ終わりが無さそうです。

最後まで読んでくださってありがとうございます。